元プロ野球投手の入来智(いりき・さとし)さんは、近鉄バファローズ、広島東洋カープ、読売ジャイアンツ、ヤクルトスワローズでプレーし、NPB通算214試合、35勝30敗、2セーブを記録した右腕です。2001年にはヤクルトで自己最多の10勝を挙げ、チームのリーグ優勝と日本一に貢献。実弟の入来祐作さんと巨人でチームメートになり、オールスターゲームでは史上初とされる兄弟リレーを実現したことでも知られています。
一方、現役引退後は韓国・台湾でのプレーを経て、故郷の宮崎県都城市で介護士として働いていました。2023年2月10日、交通事故により55歳で死去。その突然の訃報は、球界関係者や多くの野球ファンに衝撃を与えました。2026年現在、入来智さんの生涯を振り返るうえで欠かせないのは、通算成績だけでなく、移籍を重ねながらつかんだ2001年の飛躍、弟との共演、そして引退後の歩みです。
【入来智のプロフィール】宮崎からプロ野球の世界へ進んだ右腕

入来智さんは1967年6月3日、宮崎県に生まれました。鹿児島実業高校を経て、社会人野球の三菱自動車水島でプレー。1989年度のプロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから6位指名を受け、プロ入りしました。
日本野球機構(NPB)の公開選手記録によると、入来さんは右投げ右打ちで、身長178センチ、体重80キロ。プロとしての持ち味は、直球に加えてスライダーなどを操り、先発、中継ぎ、抑えと複数の役割に対応できる点でした。
プロ野球では、ドラフト上位指名の選手が必ずしも長く活躍できるわけではありません。反対に、指名順位が高くなくても、与えられた役割で結果を残し、チーム内で生き残る選手もいます。入来さんのキャリアは、球団移籍や起用法の変化に直面しながら、現役を続ける道を模索した投手の歩みでした。
近鉄でキャリアを始めた後、広島、巨人、ヤクルトへと所属球団を変えた入来さん。さらに日本球界を離れ、韓国と台湾のプロ野球にも挑戦しました。日本での通算記録だけを見ると見落とされがちですが、複数の環境でプレーを続けたこと自体が、野球に対する粘り強さを物語っています。
【経歴・年表】近鉄、広島、巨人、ヤクルトでの軌跡
入来智さんのNPBでの経歴は、近鉄への入団から始まり、広島への移籍、近鉄への復帰、巨人での弟との共演、そしてヤクルトでの復活という流れで整理できます。各球団での役割や成績には違いがあり、特に2001年のヤクルト時代がキャリアの大きな転換点になりました。
| 時期 | 所属・出来事 | 主なポイント |
|---|---|---|
| 1989年 | 近鉄バファローズに入団 | ドラフト6位指名。1990年にNPB初登板。 |
| 1990~1995年 | 近鉄でプレー | 1991年は4勝0敗、防御率2.44を記録。 |
| 1996年 | 広島東洋カープへ移籍 | シーズン途中に交換トレードで移籍し、同年オフに近鉄へ復帰。 |
| 1997~1998年 | 近鉄に復帰 | 再び近鉄の投手陣に加わり、1998年まで在籍。 |
| 1999~2000年 | 読売ジャイアンツ | 実弟の入来祐作さんと同じ球団でプレー。 |
| 2001年 | ヤクルトスワローズ | 10勝3敗、防御率2.85。リーグ優勝と日本一に貢献。 |
| 2002年 | ヤクルトでプレー | NPBでの最後のシーズン。 |
| 2003~2004年 | 韓国・台湾のプロ野球 | 韓国の斗山ベアーズ、台湾のLa New(ラニュー)でプレー。2004年限りで引退。 |
| 2023年2月10日 | 宮崎県都城市で交通事故 | 事故により死去。55歳。 |
※所属時期や移籍経緯は、NPBの個人年度別成績、日刊スポーツ、スポーツニッポンなどの報道を基に整理しています。1996年の広島在籍はシーズン途中からで、同年オフに近鉄へ復帰しました。
1996年の広島移籍は、入来さんのキャリアにおける早い段階の転機でした。翌年以降は近鉄に戻り、1998年オフに巨人へ移籍。2000年オフにはヤクルトへ移り、翌2001年に自己最多の10勝を挙げています。
この流れから読み取れるのは、入来さんが一つの球団で固定された役割を長く担うタイプではなかったということです。移籍のたびに新たな環境への適応が必要になりましたが、ヤクルトではそれまでの経験を結果に結び付けました。
【通算成績を検証】NPB214試合・35勝と2001年の10勝
入来智さんの日本プロ野球での通算成績は、NPBの公開記録で確認できます。通算214試合に登板し、35勝30敗、2セーブ、防御率4.25。投球回は605回2/3、奪三振は422でした。
数字を評価する際には、勝利数だけでなく登板数や投球回にも目を向ける必要があります。入来さんは先発だけでなく救援でも起用され、複数の役割を経験しました。通算成績は、長期間にわたり一つのポジションに固定されず、チーム事情に応じた登板を重ねたキャリアを示しています。
なかでも象徴的なのが、ヤクルトに所属した2001年です。この年は24試合に登板して10勝3敗、防御率2.85。勝率は7割6分9厘で、NPBで記録したシーズン成績のなかでも特に優れた数字を残しました。
ヤクルトは2001年にセ・リーグを制し、日本シリーズでも近鉄を破って日本一になりました。入来さんは投手陣の一員として優勝に貢献し、同年にはオールスターゲームにも初出場しています。日本シリーズでは古巣の近鉄を相手に勝利投手となったことも報じられています。
2001年の活躍が印象的なのは、単に10勝という数字を達成したからだけではありません。巨人を退団した後、ヤクルトへの移籍を経て結果を残した点に意味があります。移籍先での再起を目指す選手にとって、出場機会を得て実績を積み上げることがいかに大きいかを示すシーズンでした。
なお、NPB通算214試合という数字は日本国内の一軍公式戦における記録です。韓国や台湾での登板は、このNPB通算成績には含まれません。海外でのプレーも含めて選手生活全体を振り返る場合は、日本の公式記録と海外リーグでの記録を分けて考える必要があります。
【入来祐作との兄弟共演】巨人とオールスターで残した記憶
入来智さんを語るうえで欠かせないのが、実弟の入来祐作さんとの関係です。弟の祐作さんもプロ野球の投手として活躍し、智さんが巨人に所属していた時期に、兄弟が同じチームでプレーすることになりました。
兄弟がともにプロ野球選手になること自体が珍しいわけではありません。しかし、一軍の同じ球団で同時期に在籍し、さらにオールスターゲームという舞台で共演することは、特別な出来事でした。報道では、2人は「入来兄弟」として注目を集めたと伝えられています。
2001年のオールスターゲームでは、弟の祐作さんに続いて兄の智さんが登板し、球宴史上初とされる兄弟リレーが実現しました。異なるチームで経験を積んできた2人が、同じ舞台で投手としてつながった瞬間です。
この兄弟共演は、入来智さんの野球人生が2001年の10勝だけで語り尽くせないことを示しています。個人の成績に加え、家族が同じ競技の世界で歩み、公式戦の舞台で記録を共有したという物語が残りました。
2023年2月の訃報を受けた際にも、弟の祐作さんとの関係は多くの報道で取り上げられました。日刊スポーツやデイリースポーツなどは、巨人での兄弟在籍やオールスターでの共演を紹介し、智さんが球界で築いた人間関係と足跡を伝えています。
ただし、兄弟であることだけを強調してしまうと、智さん自身のキャリアが見えにくくなります。近鉄、広島、巨人、ヤクルトで登板を重ね、2001年には二桁勝利を挙げた投手としての実績も、同じように記憶されるべきでしょう。
【韓国・台湾での挑戦と引退後】介護士として歩んだ第二の人生
入来智さんは2002年シーズンを最後にNPBでのプレーを終えましたが、すぐに野球人生のすべてが終わったわけではありません。2003年には韓国プロ野球の斗山ベアーズ、2004年には台湾プロ野球のLa Newでプレーし、海外のリーグでも現役を続けました。
日刊スポーツなどの選手紹介によると、入来さんは2004年限りで現役を引退しました。日本のプロ野球で築いた経験を海外でも生かし、複数のリーグでプレーしたことは、キャリアの後半を考えるうえで要点です。
一方、引退後の生活は、プロ野球選手時代とは大きく異なるものになりました。スポーツニッポンの追悼記事などは、引退後にコンビニエンスストアや酒造メーカーでの仕事、弁当店など複数の職を経験した経緯を伝えています。その後、故郷の宮崎県都城市で介護士として働いていました。
プロスポーツ選手は、現役中には競技に集中できる環境やチーム内での役割を与えられます。しかし、引退すると、それまでの経験をどのように次の仕事へつなげるかという課題に直面します。野球の技術や実績が、そのまま別の職業での評価に結び付くとは限りません。
入来さんが引退後に複数の仕事を経験し、介護の仕事に就いていたことは、競技人生の終わりと生活者としての人生が別の局面にあることを示しています。プロ野球の成績だけでは見えない、選手が競技を離れた後の歩みです。
介護士としての具体的な勤務先や日々の仕事内容については、広く報じられた情報は限られています。一方、複数の報道は、故郷の都城市で介護士として働いていたことを伝えています。現役時代の知名度だけで引退後の生活を説明するのではなく、競技を離れた後にも新しい仕事に取り組んでいた事実に目を向けたいところです。
【2023年の交通事故】死因と訃報で明らかになった事実
入来智さんは2023年2月10日夜、宮崎県都城市内で発生した交通事故に遭い、55歳で亡くなりました。ヤクルト球団OBの訃報として報じられ、翌11日には複数の報道機関が死去を伝えています。
日刊スポーツやテレビ朝日系の報道によると、事故は10日午後9時50分ごろ、都城市内の交差点で発生しました。入来さんが運転していた軽乗用車と乗用車が出合い頭に衝突し、入来さんは市内の病院へ搬送されましたが、同日午後11時45分ごろに死亡が確認されました。
報道で伝えられた死因は、交通事故による重症頭部外傷です。病気による死去ではなく、車同士の衝突事故によるものでした。事故当時55歳で、誕生日を迎える前の突然の別れとなりました。
事故の詳しい状況については、当時の報道で交差点の形状や衝突の経緯などが伝えられています。ただし、事故の発生状況を説明することと、当事者の過失や責任を断定することは別問題です。報道された事実を超えて、事故原因や責任の所在を推測することはできません。
訃報が伝わると、球界関係者から追悼の声が寄せられました。日刊スポーツは、近鉄時代のチームメートだった吉井理人さんや、バッテリーを組んだ経験のある的山哲也さんらのコメントを報道しています。かつて同じグラウンドでプレーした関係者の証言からは、入来さんが選手として記憶されていたことがうかがえます。
また、デイリースポーツなどは、弟の祐作さんが兄の通夜に参列したことも伝えました。巨人時代の同僚だった清原和博さんら球界関係者から供花が寄せられ、在籍球団のユニホームや帽子なども会場に飾られたと報じられています。
2023年の死去は、入来智さんの野球人生を改めて振り返るきっかけとなりました。35勝という数字、ヤクルトでの10勝、兄弟リレーの記録、そして引退後の仕事。これらを切り離さずに振り返ることで、プロ野球選手としての実績と、一人の人間として歩んだ人生の両方が見えてきます。
【プロの視点】入来智の野球人生から読み取れる3つのポイント
入来智さんのキャリアを評価する際、最も大切なのは、通算成績の数字だけで選手の価値を決めないことです。35勝30敗、2セーブ、防御率4.25という記録は、NPBで残した客観的な実績です。一方、2001年に10勝を挙げたことや、複数の球団でプレーを続けたことは、数字の背景にあるキャリアの変化を示しています。
第一に、移籍後の結果にも注目すること。入来さんは近鉄、広島、巨人、ヤクルトと環境を変えながらプレーし、ヤクルトで自己最多の10勝を挙げました。選手を評価する際には、通算成績に加えて、どの時期に、どのような役割で結果を残したかを確認する必要があります。
第二に、NPBと海外リーグの記録を区別すること。日本での通算214試合という数字は、韓国や台湾での登板を含みません。選手の全キャリアを調べるときは、公式記録の対象範囲を理解し、国内成績と海外での実績を混同しないことが大切です。
第三に、引退後の歩みも選手の人生の一部として捉えること。プロ野球での成功と、競技を離れた後の仕事は、必ずしも同じ尺度では測れません。入来さんが複数の職を経験した後、介護士として故郷で働いていたことは、現役時代の成績表だけでは分からない人生の側面です。
人物記事を読む際には、公式記録で確認できる数字、報道によって伝えられた経歴、そして根拠の示されていない推測を区別が必要です。特に交通事故のような出来事では、死因や発生日時などの確認された情報と、事故の責任に関する推測を混同しないことが、正確な理解につながります。
【入来智】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:入来智さんのNPB通算成績は?
A1:日本野球機構の公開記録などによると、NPB通算214試合、35勝30敗2セーブ、防御率4.25です。投球回は605回2/3、奪三振は422でした。
Q2:入来智さんがヤクルトで10勝を挙げたのは何年ですか?
A2:2001年です。この年は10勝3敗、防御率2.85を記録し、ヤクルトのリーグ優勝と日本一に貢献しました。オールスターゲームにも初出場し、弟の入来祐作さんとの兄弟リレーを実現しています。
Q3:入来智さんの死因は何ですか?
A3:2023年2月10日夜、宮崎県都城市内で発生した交通事故による重症頭部外傷です。55歳でした。翌11日に球団関係者や報道機関を通じて死去が伝えられました。
Q4:入来智さんは引退後、何をしていましたか?
A4:2004年に現役を引退した後、複数の仕事を経験し、故郷の宮崎県都城市で介護士として働いていました。
入来智さんは、1989年度ドラフト6位で近鉄に入団し、広島、近鉄、巨人、ヤクルトでプレーした元プロ野球投手です。NPB通算214試合、35勝30敗2セーブ、防御率4.25という記録を残し、2001年にはヤクルトで10勝を挙げて日本一に貢献しました。弟の入来祐作さんとの巨人での共演や、オールスターゲームでの兄弟リレーも、野球史に残るエピソードです。
その後は韓国と台湾のプロ野球でプレーし、2004年に現役を引退。複数の仕事を経て介護士として働いていた2023年2月、交通事故により55歳で亡くなりました。
入来智さんの生涯は、プロ野球の記録だけでなく、移籍を重ねた現役時代、弟との共演、海外での挑戦、引退後の仕事まで含めて振り返ることで、より立体的に理解できます。2001年の10勝はそのキャリアを象徴する数字ですが、214試合に登板して積み重ねた経験や、競技を離れた後の歩みもまた、入来智という人物を語るうえで欠かせない要素です。
2026年現在も、入来さんの経歴や成績を調べる際には、NPBの公式年度別成績を基礎に、ヤクルトやオリックスなど球団関係者の発表、日刊スポーツ、スポーツニッポン、デイリースポーツなどの報道を照らし合わせることで、記録と人生の両面からその足跡をたどることができます。