「かなくりしそう」とは、日本マラソンの父と呼ばれる金栗四三の名前の読み方です。1912年のストックホルムオリンピックにマラソン選手として出場し、箱根駅伝の創設にも尽力した、日本の陸上競技史を語るうえで欠かせない人物です。
金栗四三は、五輪での途中棄権という挫折を経験しながら、日本の長距離走の普及と競技者の育成に生涯をささげました。2026年11月1日には、熊本県和水町で第43回金栗四三翁マラソン大会が開催されます。この記事では、名前の正しい読み方から生涯、ストックホルム五輪の真相、箱根駅伝への貢献、故郷に残る足跡、2026年大会の最新情報まで詳しく解説します。
【読み方を解説】かなくりしそうとは?金栗四三の名前が複数の読み方で知られる理由

金栗四三の読み方は「かなくりしそう」です。熊本県玉名市は、2018年1月29日の発表で、これまで使われてきた「しぞう」ではなく「しそう」に統一する方針を示しました。
読み方が複数存在する背景には、本人が残した資料の表記や、過去の新聞記事での呼び方があります。玉名市の説明によると、金栗本人は1962年の英文の手紙に「Shizo Kanakuri」と署名した一方、「SHISO」と署名した記録も残しています。1976年6月1日付の新聞記事には、本人が「しぞうでなく、しそうと読むのです」と答えたとする記述もあります。
こうした資料や親族との話し合いを踏まえ、自治体などが読み方を再確認した結果、現在の公式な案内では「かなくりしそう」が採用されています。検索や記事閲覧で「かなくりしぞう」という表記を見かけることがあっても、単純な別人や誤記とは限りません。歴史的な表記の違いを反映したものです。
金栗四三は1891年8月20日、現在の熊本県玉名郡和水町にあたる玉名郡春富村で生まれました。のちに玉名市上小田の池部家に養子として入りましたが、競技者として活動していた時代からの「金栗」の名を生涯にわたって使い続けました。和水町と玉名市の双方が顕彰に取り組んでいるのは、こうした生涯のつながりがあるためです。
出典:玉名市「金栗四三さん」および「マラソンの父金栗四三リーフレット」。
【生涯と年表】金栗四三の功績を時系列で整理
金栗四三の生涯を理解するうえで重要なのは、五輪に出場した競技者としての顔だけでなく、競技環境を整え、次世代を育てた指導者としての歩みです。東京高等師範学校で才能を伸ばし、世界の舞台を経験した後は、駅伝の創設や陸上競技の普及に力を注ぎました。
| 年 | 主な出来事 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 1891年 | 熊本県の春富村に生まれる | 現在の和水町にあたる地域で幼少期を過ごす |
| 1910年 | 東京高等師範学校に進学 | 嘉納治五郎のもとで競技者として成長する |
| 1911年 | 五輪国内予選で2時間32分45秒を記録 | 当時の世界記録を上回る記録として注目される |
| 1912年 | ストックホルム五輪のマラソンに出場 | 日本の五輪参加初期を代表する選手となる |
| 1917年 | 東海道駅伝徒歩競走に参加 | 日本の駅伝競走の発展につながる経験を得る |
| 1920年 | 第1回箱根駅伝が開催される | 学生長距離選手の育成につながる仕組みが始まる |
| 1920年・1924年 | アントワープ五輪、パリ五輪に出場 | 国際大会への挑戦を続ける |
| 1967年 | ストックホルム五輪のマラソンを改めて完走 | 約55年を経て、五輪マラソンのゴールに到達する |
| 1983年 | 92歳で死去 | 日本のマラソン普及に尽くした生涯を終える |
この年表から見えてくるのは、金栗が選手としての成績だけを追い求めた人物ではなかったということです。五輪での経験を、その後の競技者育成やスポーツ振興へと結びつけました。玉名市の公式資料には、日本陸上競技連盟顧問などを務めたことや、戦後の熊本県の体育振興に取り組んだことも記録されています。
また、金栗は1955年に紫綬褒章を受章し、1962年には旧玉名市の名誉市民となりました。2015年には玉名市名誉市民として改めて顕彰されています。競技者としての実績だけでなく、長年にわたる社会的な貢献も評価されてきました。
出典:玉名市「金栗四三さん」「マラソンの父金栗四三さん」、東京箱根間往復大学駅伝競走公式サイト。
【ストックホルム五輪の真相】金栗四三が途中棄権した理由とは?
金栗四三の名を歴史に刻んだ出来事の一つが、1912年7月14日に行われたストックホルムオリンピックのマラソンです。日本が初めて参加した五輪で、金栗はマラソン代表として世界の強豪に挑みました。しかし、結果は完走ではなく途中棄権でした。
玉名市の公式資料によると、当日は厳しい暑さに見舞われ、出場した68人のうち34人が途中でリタイアする過酷なレースとなりました。金栗も日射病とみられる症状に襲われ、26.7km付近で競技を続けられなくなりました。
当時の金栗を苦しめたのは、暑さだけではありません。日本からスウェーデンまでの長期移動、宿舎の環境、海外のレース経験の不足、慣れない舗装路面と足袋による足の負担など、複数の要因が重なったと考えられています。現在のように移動中のコンディション管理や暑熱対策が整っていなかった時代でした。
棄権後、金栗は地元の人に助けられましたが、競技場には戻らず宿舎へ帰りました。そのため、正式な棄権の届け出が大会本部に届かなかったとされます。この経緯から、スウェーデンでは「消えた日本人」「消えたオリンピック走者」として語られるようになりました。
ただし、ここで見落としてはならないのは、金栗が失敗をそのまま終着点にしなかったことです。五輪で世界との差を痛感した経験は、帰国後の競技力向上や長距離選手の育成に取り組む動機の一つになりました。
そして1967年、金栗はスウェーデンに招かれ、ストックホルム五輪のマラソンを改めて完走しました。記録として伝えられる所要時間は、54年8か月6日5時間32分20秒3です。競技当時の棄権という事実が覆ったわけではなく、長い年月を経て大会のゴールに到達したという、金栗の人生を象徴する出来事でした。
出典:玉名市「マラソンの父金栗四三さん」、東京箱根間往復大学駅伝競走公式サイト。
【箱根駅伝の発案者】金栗四三は日本マラソンの父と呼ばれるのはなぜ?
金栗四三の最大の功績として広く知られているのが、箱根駅伝の創設に尽力したことです。現在、正月の風物詩として定着している東京箱根間往復大学駅伝競走は、1920年に第1回大会が開催されました。その原動力の一人が金栗でした。
東京箱根間往復大学駅伝競走の公式サイトによると、箱根駅伝の構想は1919年ごろ、金栗と東京高等師範学校教員の野口源三郎、明治大学生の沢田英一らの話し合いから生まれました。当初はアメリカ大陸横断駅伝という壮大な構想もありましたが、実現に向けて東京と箱根を結ぶ大会へと具体化していきました。
その背景には、世界で通用する長距離選手を育てたいという問題意識がありました。1912年のストックホルム五輪で世界との差を実感した金栗にとって、選手が継続的に競い合い、経験を積める場をつくることは、競技の発展に欠かせない課題だったのです。
駅伝の歴史をさらにさかのぼると、1917年に京都の三条大橋から東京の上野不忍池まで約516kmを23区間に分けて走り継ぐ、東海道駅伝徒歩競走が行われています。この大会の成功が、箱根駅伝の原型になりました。
1920年2月14日、第1回大会には早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学、東京高等師範学校の4校が参加しました。東京から箱根へ向かい、翌日に東京へ戻る往復形式で競う大会は、その後、大学長距離界を代表する競技へと発展していきます。
金栗の功績は、単に大会のアイデアを出したことだけではありません。大学や師範学校などに参加を呼びかけ、長距離競技の普及と選手育成につながる環境を整えた点にあります。個人競技であるマラソンの経験を、チームでたすきをつなぐ駅伝という仕組みへと結びつけたことは、スポーツ文化の発展に大きな意味を持ちました。
また、金栗は福岡国際マラソンなどの創設にも尽力したとされています。選手として世界を経験し、その経験を大会や育成制度の整備へとつなげたことが、「日本マラソンの父」という呼び名の由来です。
出典:東京箱根間往復大学駅伝競走公式サイト、熊本日日新聞社の金栗四三関連資料、玉名市公式資料。
【故郷に残る足跡】金栗四三の生家・金栗ロードと「体力・氣力・努力」
金栗四三の原点をたどるなら、熊本県和水町と玉名市は欠かせない場所です。和水町は金栗が生まれ育った土地であり、玉名市は養子先の池部家とのつながりや、後年の顕彰を通じて深い関係を持っています。
和水町にある金栗四三の生家は、幼少期の暮らしを伝える場所として案内されています。町の公式資料によると、生家の敷地の端には、高等小学校時代に通った片道約6kmの通学路があり、「金栗四三ロード出発点」とも呼ばれています。幼いころの通学経験は、長距離を走る基礎を培ったエピソードとして伝えられています。
なお、名称が似ているため混同しやすいのが「金栗四三生家」と「金栗四三生家記念館」です。町が運営していた生家記念館は2021年3月28日に閉館しましたが、生家そのものは別の施設です。和水町は2024年に生家の公開再開を案内しており、2025年4月には生家に建立された金栗四三の銅像の除幕式も行われました。
金栗の思想を表す言葉として知られるのが「体力・氣力・努力」です。和水町の公式案内では、体力は心身の健康、氣力は初志を貫く意志力、努力は忍耐を継続することと説明されています。これは単に速く走るための心得ではなく、目標に向けて自分を鍛え続ける姿勢を示すものです。
この考え方は、ストックホルム五輪での挫折から選手育成へと歩みを進めた金栗の生涯とも重なります。競技の結果だけで人物を評価するのではなく、失敗を経験した後に何を学び、次の世代のために何を残したか。その視点から見ると、「体力・氣力・努力」という言葉の意味も、より具体的に理解できます。
また、2019年のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」では、中村勘九郎が金栗四三を演じました。ドラマをきっかけに、金栗の生涯や日本の近代スポーツ史に関心を持った人もいるでしょう。実在の金栗の歩みを知る際には、ドラマの演出と自治体や競技団体が伝える記録を区別して読むと、歴史的な背景をより正確につかめます。
出典:和水町「日本マラソンの父 金栗四三の生家」、玉名市公式資料、NHK大河ドラマに関する玉名市の紹介資料。
【2026年最新】第43回金栗四三翁マラソン大会の日程・コース・参加状況
金栗四三の名を受け継ぐイベントとして、毎年開催されているのが金栗四三翁マラソン大会です。2026年は金栗の「四三」にちなむ第43回記念大会で、熊本県玉名郡和水町の多目的広場(三加和公民館前)を会場に、11月1日(日)に開催される予定です。
大会公式サイトが2026年10月7日に公表した最終申込者数は1,535人。内訳はハーフマラソン650人、10km498人、3km152人、1.2kmファンラン235人です。エントリー受付は9月4日に終了しており、10月28日時点で新規申込の受付期間は過ぎています。
大会には、アテネオリンピック女子マラソン金メダリストの野口みずきさんと、オリンピック4大会連続出場の福士加代子さんがゲストランナーとして参加する予定です。コース名にも金栗の競技歴が反映されており、ハーフマラソンは「パリコース」、10kmは「アントワープコース」、3kmは「ストックホルムコース」、1.2kmは「金栗コース」と名付けられています。
開催概要は次のとおりです。
- 開催日:2026年11月1日(日)
- 会場:和水町多目的広場(三加和公民館前)
- 開会式:午前8時30分
- ハーフマラソン:21.0975km、午前8時45分スタート
- 10km:午前9時05分スタート
- 3km:午前10時15分スタート
- 1.2kmファンラン:午前10時30分スタート
ハーフマラソンと10kmのコースでは、金栗四三の生家や「体力・氣力・努力」の石碑付近を通過します。大会に参加することで、単に距離を走るだけでなく、金栗が過ごした故郷の風景と日本のマラソン史を身近に感じられるのが特徴です。
大会公式サイトは10月26日、応援などで来場する人に向けて駐車場の案内も更新しました。会場周辺には応援者用の駐車場がないため、スカイドーム2000または三加和グラウンドを利用し、会場までのシャトルバスに乗るよう案内しています。シャトルバスは午前7時から順次運行する予定です。
また、大会当日はコース周辺で交通規制が実施されます。和水町の公式案内では、県道195号や県道194号、町道の一部が時間帯によって全面通行止めとなり、規制は午前8時30分から午前11時50分までの区間を含みます。応援や観光で訪れる場合は、当日の交通案内を事前に確認しておくと安心です。
出典:金栗四三翁マラソン大会公式サイト「大会要項」「エントリー数が確定しました!」「応援等で来場される皆様へ」「交通規制のお知らせ」、和水町公式案内、熊本日日新聞社の大会情報。
【かなくりしそう】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:金栗四三の正しい読み方は「しそう」と「しぞう」のどちらですか?
A1:現在、玉名市などの自治体資料で統一されている読み方は「かなくりしそう」です。ただし、本人の署名や過去の新聞記事には「しぞう」に相当する表記も残されており、歴史的には複数の読み方が使われていました。
Q2:金栗四三がストックホルムオリンピックで途中棄権した理由は何ですか?
A2:1912年の大会では猛暑に見舞われ、金栗は日射病とみられる症状で26.7km付近で棄権しました。長期移動による疲労や当時の宿舎環境、競技経験の不足なども、コンディションに影響した要因として挙げられています。
Q3:金栗四三は本当に箱根駅伝を発案した人物なのですか?
A3:はい。箱根駅伝の創設を進めた中心人物の一人です。野口源三郎や沢田英一らと構想をまとめ、大学などに参加を呼びかけた結果、1920年に早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学、東京高等師範学校の4校で第1回大会が実現しました。
Q4:金栗四三翁マラソン大会は2026年のいつ開催されますか?
A4:2026年11月1日(日)に、熊本県和水町の多目的広場(三加和公民館前)で開催される予定です。エントリーは9月4日に終了しています。応援に行く場合は、指定された駐車場とシャトルバスの利用、当日の交通規制を事前に確認してください。
Q5:金栗四三の生家や金栗ロードは現在も見学できますか?
A5:和水町では金栗四三の生家を公開施設として案内しており、幼少期の通学路にあたる金栗ロードも地域のゆかりの場所として紹介されています。旧「金栗四三生家記念館」は2021年に閉館していますが、生家そのものとは別施設です。見学の日時や利用条件は、和水町の最新案内で確認するのがおすすめです。
金栗四三は、1912年のストックホルムオリンピックに出場した日本のマラソン界の先駆者であり、箱根駅伝の創設や長距離選手の育成に尽力した人物です。猛暑による途中棄権という挫折を経験しながらも、競技を通じて得た課題を日本のスポーツ環境の整備へと結びつけました。
その功績は、箱根駅伝やマラソン大会という形だけでなく、故郷の和水町に残る生家や金栗ロード、そして「体力・氣力・努力」という考え方にも受け継がれています。2026年11月1日の第43回金栗四三翁マラソン大会も、金栗の足跡を地域とランナーが共有する機会です。
金栗四三を知るうえで大切なのは、五輪で完走できなかった選手という一面だけに注目しないことです。世界との差を実感した経験を、後進の育成や競技の普及へと変えていった生涯こそが、日本マラソンの父と呼ばれる理由です。名前の読み方をきっかけに、その歩みと現在まで続く功績を知ることで、日本のマラソンと駅伝の歴史がより立体的に見えてきます。