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栗城史多はなぜエベレストに挑み続けたのか?死因・指9本切断・8度の挑戦を徹底解説

霧島 直人 霧島 直人 • 更新: • 公開: • 読了約 19 分
目次

登山家・栗城史多(くりき・のぶかず)氏は、エベレスト登頂を目指して8度にわたり挑戦を続け、2018年5月21日、35歳で亡くなりました。インターネットを通じて冒険を発信し、「冒険の共有」を掲げた一方、単独無酸素登山の実態や登山計画の危険性をめぐって、登山界やメディアで賛否が分かれた人物です。

2012年のエベレスト挑戦では、強風による登頂断念と下山中の重度の凍傷を経験し、両手の指9本を失いました。それでも2014年に高峰ブロードピークへの単独無酸素登頂を果たし、再びエベレストへ。最後の挑戦となった2018年には、標高約7400メートルのキャンプ3から下山する途中で滑落しました。当初伝えられた低体温症という死因は、後に滑落による頭部や全身への強い衝撃へと訂正されています。

【経歴】栗城史多とは何者だったのか?北海道今金町からエベレストへ

栗城史多

栗城史多氏は1982年6月9日、北海道瀬棚郡今金町に生まれました。北海道檜山北高等学校を経て、札幌国際大学人文社会学部社会学科を卒業。大学の山岳部で登山を始め、国内外の高峰に挑むようになります。

本人の公式プロフィールによると、2004年にはマッキンリー(現デナリ)、2005年にはアコンカグア、エルブルース、キリマンジャロなどの登頂を経験。2007年にはチョ・オユーで単独無酸素登頂を達成するなど、8000メートル級の山々にも挑戦しました。

彼の活動を特徴づけたのは、山頂を目指すことだけではありません。2009年からは登山の様子をインターネットで生中継し、挑戦の過程や困難を広く共有する活動を始めました。これが、彼の掲げた「冒険の共有」です。

栗城氏は企業や学校で講演活動を行い、チームづくりや人材育成に関するアドバイザーとしても活動しました。個人事務所の株式会社たおでは代表取締役を務め、2011年9月からは、よしもとクリエイティブ・エージェンシーとの業務提携も行っています。

こうした活動によって、栗城氏は登山界の外にも名前を知られる存在になりました。登頂の成否だけでなく、挑戦する姿を見せることそのものを活動の中心に据えた点が、従来の登山家とは異なる特徴でした。

ただし、講演や映像配信を通じて広く支持を集めることと、登山家としての技術や実績が専門家から評価されることは別の問題です。この違いが、後に栗城氏をめぐる大きな論争につながっていきます。

【年表】エベレスト8度の挑戦はどこまで進んだのか?

栗城氏は2009年から2018年まで、計8回エベレスト登頂に挑みました。公式プロフィールに記載された到達高度や当時の報道を整理すると、毎回同じルートを登っていたわけではなく、北側や南側、西稜、南西壁など、挑戦するルートも変化していたことが分かります。

特に注目されるのが、2012年の西稜ルートでの挑戦です。強風のため標高約8070メートルで登頂を断念し、その下山中に重度の凍傷を負いました。2015年以降も再挑戦を続けましたが、最後まで山頂には到達できませんでした。

年 挑戦の内容 結果・主な経緯
2009年 1回目・チベット側 北側のメスナールートを進み、標高約7750メートルで断念。
2010年 2回目・ネパール側 南側から挑戦し、標高約7550メートルで断念。
2011年 3回目・ネパール側 サウスクロワールルートを進み、標高約7800メートルで断念。
2012年 4回目・西稜ルート 標高約8070メートルまで進むも強風で断念。下山中に重度の凍傷を負う。
2015年 5回目・ネパール側 ネパール大地震を受けて計画を変更。標高約8150メートルまで進んだが登頂できず。
2016年 6回目 標高約7400メートルまで進んだが、登頂を断念。
2017年 7回目 中国側のルートでブルーアイスに阻まれ、ネパール側へ計画を変更したものの断念。
2018年5月 8回目・南西壁 標高約7300~7400メートル付近から下山。5月21日に滑落死。

※標高は公式プロフィールなどに記載された到達地点を基にした概数です。2017年のように、挑戦の経過が複数のルートにまたがるケースもあります。

この年表から見えてくるのは、8回の挑戦が単純な反復ではなかったということです。ルートや条件を変えながら山頂を目指したものの、登頂に至ることはありませんでした。

一方、標高8000メートルを超えた経験があることと、エベレスト登頂に成功したことは同じではありません。登山では、最後の高度差だけでなく、天候、地形、酸素の有無、登下降に必要な体力、そして安全に帰還できるかどうかが成否を左右します。

【単独無酸素の実態】「冒険の共有」と登山界の厳しい批判

栗城氏の代名詞となった「単独無酸素登山」とは、一般に、他者の支援に頼らず一人で登り、登山用の補助酸素を使用しない登山を指します。ただし、登山界では「単独」の定義や、固定ロープ、先行者が設置した装備、シェルパなどの支援をどこまで認めるかについて、厳密な考え方があります。

栗城氏の場合、インターネット配信を通じて自らの挑戦を発信し、多くの人と冒険を共有することを重視していました。その一方で、登山界の一部からは、掲げていた「単独無酸素」という表現と、実際の登山形態やルートの条件との整合性について疑問が示されていました。

2018年のJ-CASTニュースなどの報道では、単独という言葉の解釈やシェルパの存在、登頂を目指すまでの準備期間などが論点として取り上げられています。これは単なる好き嫌いではなく、登山の実績をどの基準で評価するのかという問題でもありました。

また、エベレストには複数の登山ルートがあり、それぞれ難易度や危険性が異なります。一般的に利用者の多い南東稜や北稜のルートと比べ、西稜や南西壁は技術的な難しさや危険性が高いことで知られています。

特に2012年に挑戦した西稜ルートは、強風にさらされやすく、長く険しい登攀を要するルートでした。プレジデントオンラインが2023年に掲載した登山家・栗城氏に関する記事でも、このルート選択の難しさや、単独無酸素で挑むことへの疑問が紹介されています。

ここで重要なのは、批判の存在だけを理由に栗城氏の活動全体を否定することも、反対に挑戦する姿勢だけを理由に登山技術への疑問を退けることも、適切な評価にはならないという点です。

「冒険の共有」という活動には、登山を専門としない人にも挑戦の過程を伝え、夢や困難について考えるきっかけをつくるという側面がありました。しかし、映像や講演で伝えられる物語と、登山の安全性や技術的な成果は、分けて評価する必要があります。

栗城氏の評判が大きく分かれた背景には、この二つの評価軸が交差していたことがあります。応援する人々は挑戦を続ける姿に価値を見いだし、批判する人々は掲げた目標と登山技術、安全管理との関係を問題視していました。

【指9本切断】2012年の凍傷から2014年の復帰まで

栗城氏の登山人生を大きく変えたのが、2012年10月のエベレスト西稜への挑戦でした。標高約8070メートルまで進んだものの、強風によって登頂を断念。下山する過程で両手、両足、鼻に重度の凍傷を負いました。

凍傷は、極端な低温によって皮膚やその下の組織が損傷する障害です。高所では気温の低さだけでなく、風による体温の喪失、長時間の行動、装備の状態なども危険性に関わります。重症化すると組織が壊死し、損傷した部分を切断しなければならない場合があります。

栗城氏はこの事故により、右手の親指を除く両手の指9本を第二関節付近まで切断しました。登山でピッケルを握る、ロープを扱う、器具を操作するといった動作に大きく影響する負傷です。

指を失ったことは、登山家として大きな転機になりました。日常生活の動作にも支障が生じ、登山を再開するにはリハビリやトレーニングを重ねる必要がありました。本人の活動を紹介した事業構想オンラインの記事でも、事故後の復帰に向けた苦労が取り上げられています。

それでも栗城氏は登山を続けました。2014年7月には、標高8047メートルのブロードピークで単独無酸素登頂に成功。エベレストの登頂には至らなかったものの、重度の凍傷を経験した後に8000メートル級の山を登り切ったことは、彼の登山歴における大きな成果でした。

この復帰実績は、栗城氏の挑戦を支持する人々にとって重要な意味を持ちました。一方で、ブロードピークの登頂成功は、エベレストの西稜や南西壁を同じ条件で攻略できることを保証するものではありません。山が変われば地形や天候、必要な技術も変わるためです。

2015年以降も栗城氏はエベレストへの挑戦を続けました。凍傷によって指を失った後も登山に戻ったという事実は、その執念を示しています。しかし、身体的なハンディキャップを乗り越えることと、危険な高所登山で安全に登頂・下山する能力を確保することは、別々に考える必要があります。

【死因と滑落の経緯】2018年5月21日、キャンプ3からの最後の下山

2018年5月、栗城氏は8回目となるエベレスト登頂に挑みました。今回の目標は南西壁からの登頂でしたが、山頂には到達できず、下山を余儀なくされます。

2018年5月25日に所属事務所が発表した訂正内容と、ITmedia NEWSなどの報道によると、栗城氏は5月20日、標高約7400メートルのキャンプ3まで登りました。その後、テントを設営できる場所を探して少し標高を下げ、テント場を確保したとされています。

しばらくして栗城氏は、体調不良のため下山すると無線で撮影隊に伝え、下山を開始しました。しかし、その後は無線連絡に反応しなくなり、時間が経過しても戻らなかったため、撮影隊が捜索を行いました。

捜索の結果、栗城氏は標高約6600メートル付近で発見されました。所属事務所の説明では、遺体の状態から、下山中に約100~200メートル滑落したと推測されています。

当初、死因については低体温症と伝えられていました。しかし、遺体発見時の情報が日本側と撮影隊との間で錯綜していたことから、所属事務所は5月25日に発表内容を訂正。実際の死因は、標高約7400メートルのキャンプ3から下山する途中の滑落によって、頭部や全身を強く打ったことだと説明しました。

したがって、栗城史多氏の死因を正確に説明するなら、単に「低体温症で亡くなった」とするのではなく、下山中の滑落による頭部や全身への強い衝撃とするのが、後日の訂正発表に基づく整理です。

事故の経緯を時系列で整理すると、次のようになります。

  • 2018年5月20日:南西壁を登り、標高約7400メートルのキャンプ3に到達。その後、テント場を確保するため少し標高を下げる。
  • 5月20日以降:体調不良を理由に下山する旨を無線で撮影隊に伝え、下山を開始。
  • 下山中:無線連絡が途絶え、撮影隊が捜索を開始。
  • 2018年5月21日:標高約6600メートル付近で遺体が発見され、死亡が伝えられる。
  • 5月25日:所属事務所が当初の低体温症という説明を訂正し、滑落による頭部や全身への強い衝撃が死因だったと発表。

事故について公表された情報からは、下山を始めた後に無線連絡が途絶え、滑落したと推定されるところまでが分かります。一方、滑落が起きた正確な瞬間や、転落に至った直接の引き金については、発表された経緯だけで断定できません。

高所登山では、登頂を目指す上りだけでなく、疲労が蓄積した状態での下山にも大きな危険が伴います。標高が高い場所では酸素が薄く、気象条件も厳しくなります。栗城氏の最期は、登頂を断念して下山する局面であっても、危険がなくなるわけではないことを示しています。

【なぜ登頂できなかったのか】評判・批判から検証する栗城史多の挑戦

栗城氏がエベレストに8回挑みながら登頂できなかった理由を、一つの原因だけで説明することはできません。挑戦ごとにルートや気象条件が異なり、登山計画や本人の身体的条件も変化していたからです。

ただし、公開されている登山歴や当時の報道からは、登頂を難しくした複数の要因を整理できます。

第一に、ルートの難易度です。栗城氏は、一般的な登山ルートより難度が高い西稜や南西壁などに挑戦しました。こうしたルートでは、標高を上げることに加えて、技術的に難しい地形を通過し、厳しい風や気象条件に対応する必要があります。

第二に、無酸素登山という条件です。エベレストの高所では酸素の不足が身体の働きに大きな影響を及ぼします。補助酸素を使わない登山は、登頂を目指すうえでさらに厳しい条件を課すことになります。無酸素という目標を掲げること自体が、登頂の難しさを増す要因になっていました。

第三に、登山計画と安全管理への疑問です。2018年のJ-CASTニュースなどでは、現地入りから登頂予定日までの期間や、難しいルートを選択することへの懸念が取り上げられました。こうした指摘は、挑戦する姿勢の評価とは別に、準備や計画の妥当性を検討する必要があることを示しています。

第四に、発信活動と登山の成果の違いです。栗城氏はインターネット中継や講演を通じて、多くの人に挑戦を届けていました。その活動が注目を集める一方、発信される挑戦の物語と、登山界が求める技術的な実績や安全管理の基準との間には、認識の違いが生まれました。

文春オンラインが紹介した河野啓氏の著書『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』は、栗城氏の歩みを追い、挑戦の発信方法や周囲との関係も含めて、その活動を検証する作品です。栗城氏を単純に英雄視するのでも、無謀だったと切り捨てるのでもなく、本人の魅力と登山計画の問題を分けて考えるための視点を提供しています。

栗城氏への評価が分かれるのは、挑戦する意志を認めることと、その挑戦を登山技術として評価することが同じではないからです。支持する側が重視したのは、失敗や負傷を経験しても山に戻る姿勢や、冒険を共有する活動でした。批判する側が重視したのは、登山の実績、単独無酸素という表現の妥当性、ルート選択、そして安全性です。

どちらか一方の見方だけでは、栗城氏の活動の全体像を捉えられません。実際に登頂した山や到達高度は具体的な記録で確認し、登山計画への評価は専門家の指摘や当時の報道に照らして検討する。その区別が、人物像を理解するうえで欠かせません。

【プロの結論】挑戦する姿勢と、挑戦を成立させる技術は別の評価軸

栗城氏の経歴から読み取れる大きな論点は、挑戦する意志の強さだけでは、危険な登山を成功に導けないということです。

登山の成果を評価するときには、少なくとも次の三つを分けて考える必要があります。

  • 実績:どの山に登頂したのか、どの高度まで到達したのか、どのルートを使ったのか。
  • 計画と安全性:気象条件や地形、身体の状態を踏まえ、撤退を含めた判断が適切だったか。
  • 発信と社会的影響:挑戦を伝える活動がどのような価値を生んだのか。また、伝えられた内容が登山の技術的な実績と混同されていないか。

この基準で見れば、栗城氏にはブロードピークの単独無酸素登頂という実績があり、冒険の共有を通じて多くの人に挑戦の姿を届けたという活動歴もあります。一方、エベレストでは8回とも登頂に至らず、ルート選択や安全管理をめぐる批判も受けました。

成功と失敗のどちらかだけで人物を評価するのではなく、達成したこと、達成できなかったこと、そしてその過程で生じた問題を分けて見ることが、栗城史多という登山家を理解するための現実的な方法です。

【栗城史多】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:栗城史多の死因は何ですか?
A1:2018年5月21日、エベレストの標高約7400メートルにあるキャンプ3から下山する途中で滑落し、頭部や全身を強く打ったことが死因とされています。当初は低体温症と伝えられましたが、所属事務所が5月25日に説明を訂正しました。遺体は標高約6600メートル付近で発見され、滑落距離は約100~200メートルと推定されました。

Q2:栗城史多はエベレストに何回挑戦し、登頂できましたか?
A2:2009年から2018年まで計8回挑戦しましたが、エベレストの山頂には到達できませんでした。2012年には標高約8070メートル、2015年には約8150メートルまで進んだと公式プロフィールに記載されています。

Q3:栗城史多はなぜ指9本を失ったのですか?
A3:2012年10月のエベレスト西稜への挑戦で、強風のため登頂を断念して下山する途中、両手・両足・鼻に重度の凍傷を負ったためです。右手の親指を除く両手の指9本を第二関節付近まで切断しました。その後も登山を続け、2014年7月にはブロードピークの単独無酸素登頂に成功しています。

栗城史多氏は、北海道今金町出身の登山家であり、インターネットを通じて冒険を共有する活動でも知られた人物です。エベレストに8回挑戦し、2012年には凍傷で指9本を失いながらも登山に復帰。2014年にはブロードピークの単独無酸素登頂を達成しました。

しかし、エベレスト登頂という目標は最後まで実現せず、2018年5月21日、8回目の挑戦で下山中に滑落して35歳で亡くなりました。死因については、当初の低体温症という説明が後に訂正され、滑落による頭部や全身への強い衝撃とされています。

2026年現在、栗城氏はすでに亡くなっており、新たな登山活動を行っているわけではありません。現在も振り返られるのは、8度にわたるエベレスト挑戦、重度の凍傷からの復帰、そして「冒険の共有」を通じて社会に発信した活動です。

彼の人生を考えるうえでは、挑戦する意志と登山の技術的な実績を混同しないことが大切です。登頂できなかった事実も、ブロードピークでの成功も、凍傷や最期の事故も、それぞれが彼の登山歴を構成しています。支持と批判の両方を具体的な記録に照らして検討することで、栗城史多という人物の実像が見えてきます。

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コンテンツディレクター 霧島 直人
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芸能担当15年。事務所の公式リリースと本人の公式SNSを一次情報とし、夕刊紙の報道は複数媒体が一致した場合だけ触れます。

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