「江夏の21球」を語るうえで、現在も議論の余地を残しているのが19球目のスクイズ外しだ。
一般的には、江夏が石渡のバントの動きを察知し、瞬間的に投球コースを変えてスクイズを阻止したと説明される。しかし、実際には当事者によって受け止め方が異なっている。
江夏の証言にある投球動作の秘密山際淳司の作品では、江夏の投球フォームにあった癖が重要な意味を持つ。江夏は投球動作の途中で打者を見る習慣があり、その瞬間に石渡のバットが動いたことを察知したという。
通常、投手が投球動作に入ってから球種や握りを変えることは難しい。ところが江夏は、すでにカーブの握りで投球動作に入っていたため、そのまま外角へ外す判断をしたと作品では描かれている。
Forbes JAPANが掲載した山際作品の引用部分でも、この一瞬の判断が詳しく紹介されている。わずかな動きを見逃さず、握りを変えずに投球コースを変える。19球目が単なるコントロールミスではなく、極限状態での判断力を象徴する場面として扱われる理由だ。
石渡茂は偶然だった可能性を示唆一方、石渡はこの投球について、意図的に外したのではなく、ボールが偶然抜けた可能性を疑っていた。山際の作品を紹介したWedgeの記事でも、石渡がそのような疑問を抱いていたことが記されている。
つまり、19球目には二つの見方がある。
- 意図的なウエスト説:江夏が石渡のバントの動きを察知し、カーブの握りのまま外した。
- 偶発的な投球説:江夏の意図的な判断ではなく、投球が偶然外れた可能性がある。
この違いは、敗れた近鉄側にとっても大きい。意図的に外されたのであれば、江夏の判断力に屈したことになる。偶然の抜け球であれば、勝敗を分けたのは別の要因だったという解釈も成り立つ。
二宮清純の野球評論や、当事者の証言を扱った各種の検証でも、この一球は単純な成功談として片付けられていない。江夏の技術、水沼の捕球、石渡の判断、藤瀬の走塁が複雑に絡み合ったプレーなのである。
さらに重要なのは、19球目だけを切り離して評価しないことだ。そこに至るまでに江夏が佐々木を三振に仕留め、石渡から初球のストライクを奪っていた。19球目の奇跡を理解するには、18球目までの積み重ねを見る必要がある。
【山際淳司の名作】Sports Graphic Number創刊号から『スローカーブを、もう一球』へ

試合の記録をスポーツ史に残る文学作品へと変えたのが、作家・山際淳司だ。
山際は1948年、神奈川県生まれ。中央大学法学部を卒業後、ライターとして活動した。1980年4月20日発売のスポーツ総合誌『Sports Graphic Number』創刊号に「江夏の21球」を掲載し、スポーツノンフィクション作家として広く知られるようになった。
その後、1981年に角川書店から刊行されたエッセイ集『スローカーブを、もう一球』に同作が収録され、第8回日本ノンフィクション賞を受賞した。1995年5月29日、46歳で亡くなっている。これらの経歴は、KADOKAWAの書誌情報や版元ドットコムの著者紹介にも記載されている。
なぜ「江夏の21球」は画期的だったのか当時のスポーツ記事は、試合結果、勝敗、選手の成績、監督の采配などを中心に構成されるものが多かった。それに対して山際の作品は、試合の最終回に投じられた21球だけを主題に据えた。
その特徴は、単に投球を順番に説明することではない。
- 選手心理:投手は何を考え、打者は何を狙っていたのか。
- 人間関係:江夏と衣笠、江夏と古葉監督の関係が投球にどう影響したのか。
- 戦術:盗塁、敬遠、代打、スクイズという選択がなぜ行われたのか。
- 偶然と判断:一瞬の動きが、どのように試合の結果を変えたのか。
山際は江夏本人や関係者への取材を重ね、選手ごとの視点を組み合わせた。Wedgeで元毎日新聞運動部長・論説委員の中島章隆が紹介したところによれば、作品は約4万字に及び、1球ごとの意味を掘り下げている。
読者が目にするのは、単なる野球の技術論ではない。投手のプライド、監督への不信感、味方の励まし、相手ベンチの作戦、打者の迷いなど、グラウンドにいる人間の感情そのものだ。
『スローカーブを、もう一球』はどんな本?『スローカーブを、もう一球』は、「江夏の21球」だけを収録した単行本ではない。野球を題材とする短編ノンフィクションをまとめた作品集だ。
KADOKAWAの書誌情報によると、収録作品は全12編。構成は次のとおりである。
- 第1章「江夏の21球」:「江夏の21球」「落球伝説」「バッティング投手」「テスト生」「ノーヒット・ノーラン」「負け犬」
- 第2章「スローカーブを、もう一球」:表題作のほか、甲子園にまつわる作品などを収録。
- 第3章「異邦人たちの天覧試合」:社会人野球や野球の歴史に関わる作品を収録。
2012年には角川文庫版も刊行され、2017年にはKADOKAWAから『江夏の21球』を表題とする新書版も発売された。後者には山際の代表的な野球短編12作品が収められている。
本書の魅力は、勝者だけを美化しないところにもある。勝負に敗れた選手にもそれぞれの事情や誇りがあり、ほんの少し違う結果になっていたら、歴史は変わっていたかもしれない。その可能性まで読者に想像させる構成になっている。
山際の作品は、スポーツを結果だけで評価する見方から、競技者の内面や試合の背景を読み解く見方へと、読者の視線を広げた作品として評価されている。
参考:KADOKAWA書誌情報、版元ドットコム、笹川スポーツ財団、Wedge。
【NHK特集・スポーツドキュメント】野村克也の解説で見えるもう一つの江夏の21球
山際淳司の作品と並んで、江夏の21球を理解するうえで欠かせないのが、NHKが制作したドキュメンタリー「NHK特集・スポーツドキュメント 江夏の21球」だ。
初回放送は1983年1月24日。放送時間は48分で、江夏本人や両チームの監督・選手の証言を交え、9回裏の全21球を映像で分析している。語りは森本毅郎、実況は島村俊司、野村克也が解説を担当した。
NHKエンタープライズの公式商品紹介でも、江夏、古葉竹識、西本幸雄、衣笠祥雄、水沼四郎、佐々木恭介、石渡茂らの出演が確認できる。
野村克也が注目したのは19球目だけではなかったこのドキュメンタリーの大きな特徴は、野村克也が捕手・監督としての経験を踏まえ、投球の意味を分析していることだ。
野村は後年、幻冬舎plusに掲載された評論でも「江夏の21球」を振り返っている。そこで特に重視したのが、佐々木恭介に対する6球だった。
野村の分析によれば、江夏は佐々木がカーブを狙っていることを察知し、ストレートを織り交ぜながら打者のタイミングを崩していった。最後は同じような軌道から変化するカーブで空振り三振を奪ったという。
これは、伝説の中心を19球目だけに置く見方とは異なる。野村にとっては、スクイズを外す前に佐々木を三振に仕留めた配球こそ、江夏の投球術を象徴する部分だった。
投手は単に速い球や変化球を投げるのではない。打者が何を待ち、どの球に反応し、どのような心理状態にあるのかを考えながら組み立てる。野村の解説は、21球を投手と打者の知的な駆け引きとして理解する手掛かりになる。
文章版と映像版の違い山際の作品とNHK特集は、同じ試合を扱いながら、読者・視聴者に異なる体験を提供する。
- 山際淳司の作品:選手の内面、記憶、証言を文章で積み重ね、心理の変化を深く追う。
- NHK特集:実際の試合映像と関係者の証言を組み合わせ、投球の軌道や選手の動きを視覚的に再現する。
- 野村克也の解説:捕手・監督経験を生かし、配球や作戦の意図を野球理論から読み解く。
NHKの番組紹介では、当時の試合映像を用いて全21球を克明に分析し、両チームの証言と野村の解説を組み合わせた構成が説明されている。映像を通じて、文章だけでは捉えにくい選手の動きや試合の緊張感を確認できる点が大きい。
さらに2025年10月17日には、NHK総合の「時をかけるテレビ~今こそ見たい!この1本~」で再放送された。2026年にこの作品を調べる読者にとっても、過去の名勝負を現代の視点から見直す機会となった。
NHKオンデマンドにも、2025年10月17日放送の「時をかけるテレビ~今こそ見たい!この1本~ 江夏の21球」の番組情報が掲載されている。
【作品の評価と読みどころ】江夏の21球が2026年も語り継がれる理由
「江夏の21球」は、野球ファンだけが楽しむ記録ではない。スポーツを題材にしたノンフィクションとして、現在も評価される理由は大きく三つある。
1. 勝敗が決まる瞬間を人間ドラマとして描いた通常の試合記事なら、9回裏の攻防は「江夏が無死満塁を抑えて広島が日本一」という数行の記録で終わる。
しかし、山際はそこに至るまでの選手の心理を掘り下げた。江夏のプライド、古葉監督との関係、衣笠の励まし、佐々木の狙い、石渡のスクイズ。試合結果だけでは見えない背景を丁寧に描いている。
スポーツノンフィクションの魅力は、記録に残る結果と、選手たちがその瞬間に抱えていた感情を結び付けることにある。同作はその魅力を端的に示した作品だ。
2. 一人のヒーローだけでなく敗者にも光を当てているこの試合で日本一になったのは広島だ。しかし、近鉄の側にも勝利を目指した選手たちの判断と努力があった。
藤瀬の盗塁、吹石の二盗、佐々木の打席、石渡のスクイズ。近鉄は決して受け身だったわけではない。むしろ、さまざまな作戦を繰り出して江夏を追い詰めた。
だからこそ、江夏の21球は輝く。相手が強く、作戦が鋭く、失敗すれば日本一を逃す状況だったからこそ、最後の三振に大きな意味が生まれた。
3. 文章・映像・解説で何度でも検証できる1980年の『Sports Graphic Number』創刊号、1981年の『スローカーブを、もう一球』、1983年のNHK特集という流れは、ひとつの試合が異なるメディアを通して記録されてきた歴史でもある。
文章では心理を読み、映像では動きを確かめ、野村の解説では戦術を理解する。それぞれを照らし合わせることで、同じ21球でも見えてくるものが変わる。
作品を読む・見るならどちらがおすすめ?| 読み方・視聴方法 | 向いている人 | 主な魅力 |
|---|---|---|
| 山際淳司の原作 | 文章で深く理解したい人 | 心理描写と証言の重層性 |
| 『スローカーブを、もう一球』 | 野球文学を幅広く読みたい人 | ほかの短編も楽しめる |
| 1983年NHK特集 | 実際の試合映像を見たい人 | 投球と選手の動きが分かる |
| 野村克也の評論 | 野球の戦術を学びたい人 | 捕手・監督目線の配球分析 |
初めて触れるなら、NHK特集で実際の場面を確認してから山際の作品を読む方法がおすすめだ。先に試合の流れを知っておくと、文章で描かれる心理や判断の意味が理解しやすくなる。
一方、すでに野球のルールや戦術を理解している人は、野村克也の評論から入ると、佐々木との6球や石渡への配球など、技術面の奥深さを楽しめる。
逆に、試合結果や選手のプロフィールだけを短時間で確認したい人にとっては、約4万字のノンフィクションは情報量が多く感じられるかもしれない。その場合は、まず21球の時系列を押さえ、関心のある場面から作品に進むとよい。
【江夏の21球】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:江夏の21球はいつ、どの試合で起きた出来事ですか?
A1:1979年11月4日、大阪球場で行われた広島東洋カープ対近鉄バファローズの日本シリーズ第7戦です。9回裏、4対3でリードしていた広島の江夏豊が、近鉄の無死満塁の攻撃を21球で抑えました。
Q2:江夏の21球で最も有名なのは何球目ですか?
A2:一般的には19球目が最も有名です。石渡茂がスクイズを試みた瞬間、江夏がカーブの握りのまま外角へ投球し、スクイズを阻止しました。三塁走者の藤瀬史朗も三本間で挟まれてアウトになりました。
Q3:江夏の21球を書いた作家は誰ですか?
A3:山際淳司です。1980年の『Sports Graphic Number』創刊号に掲載され、1981年刊行の『スローカーブを、もう一球』にも収録されました。第8回日本ノンフィクション賞を受賞した代表作です。
Q4:NHK特集「江夏の21球」はいつ放送されましたか?
A4:初回放送は1983年1月24日です。48分のスポーツドキュメンタリーで、江夏や両チームの関係者の証言に加え、野村克也の解説を交えて21球を分析しました。2025年10月17日にも関連番組内で再放送されています。
Q5:野村克也は江夏の21球をどう評価していましたか?
A5:野村は、19球目のスクイズ外しだけでなく、その前の佐々木恭介に対する6球に注目しました。江夏が球種やコースを組み合わせ、打者の狙いを外して三振に仕留めた配球を高く評価しています。
Q6:江夏の21球は実話ですか?
A6:はい。1979年の日本シリーズ第7戦で実際に起きた試合の攻防を題材にしたノンフィクションです。作品名であると同時に、9回裏の一連の攻防を指す呼称としても定着しています。
「江夏の21球」は、1979年11月4日の日本シリーズ第7戦、広島対近鉄の9回裏に起きた実際の攻防を題材にした作品であり、日本プロ野球を代表する名勝負の呼び名でもある。
江夏豊は無死満塁という絶体絶命の状況から、佐々木恭介を三振に仕留め、石渡茂のスクイズを阻止し、最後は空振り三振で試合を締めくくった。広島は4対3で勝利し、球団初の日本一を達成した。
この出来事をスポーツ文学として記録した山際淳司の作品は、1980年の『Sports Graphic Number』創刊号に掲載され、翌1981年には『スローカーブを、もう一球』に収録された。さらに1983年のNHK特集では、野村克也の解説を通して、投球術や選手心理が映像で掘り下げられた。
2026年に改めて注目したいのは、伝説を一つのスーパープレーだけで説明しないことだ。19球目のスクイズ外しは確かに象徴的だが、そこに至るまでの20球、捕手や野手の判断、監督の采配、打者の心理があって初めて成立した勝負だった。
21球の価値は、最後の一球だけではなく、その一球に至るまでのすべての判断にある。だからこそ、山際の文章を読み、NHKの映像を見直し、野村の解説に耳を傾けるたびに、新しい発見が生まれる。江夏の21球は、野球という競技の奥深さと、人間が極限状態で見せる判断力を今に伝える記録なのである。