鬼十則が社員手帳から削除される大きな契機となったのが、2015年に発生した高橋まつりさんの過労自殺問題です。
この問題を理解するには、鬼十則への批判と、実際に明らかになった労働環境の問題を分けて考える必要があります。
高橋まつりさんの過労自殺と2016年の労災認定高橋まつりさんは、2015年4月1日に電通へ入社した新入社員でした。
電通が2016年12月28日に公表した経緯によると、同年7月にデジタル・アカウント部へ配属され、先輩社員のサポート業務に従事していました。
ところが、2015年10月に試用期間が終了すると、業務量が急激に増加。長時間労働が続き、12月25日に24歳で亡くなりました。
翌2016年9月30日、労働基準監督署は長時間労働を原因として労災認定しました。
電通自身も、外部法律事務所による調査結果を公表し、仕事への責任感や職場の人間関係などが強い心理的ストレスになっていた可能性を説明しています。また、新入社員に対する行き過ぎた指導についても、パワーハラスメントとの指摘を否定できないと認めました。
鬼十則の第5項が批判された理由この事件を受け、特に問題視されたのが第5項です。
仕事を最後までやり抜くという趣旨そのものよりも、生命を危険にさらしてでも仕事を完遂するかのような表現が、当時の労働環境と重ねて受け止められました。
批判の背景には、次のような問題があります。
- 責任感の過度な要求: 仕事を最後までやり抜くことが、個人の限界を超えて働くことと結びつく危険性。
- 上司と部下の力関係: 強い指導や上下関係のもとでは、社員が業務量や納期について異議を唱えにくくなること。
- 長時間労働の容認: 努力や忍耐を重視する文化が、過剰な労働を問題視しにくい職場環境につながる可能性。
- 成果優先の組織運営: 高い品質を求めるあまり、社員の健康や生活への配慮が後回しになること。
重要なのは、鬼十則そのものが高橋さんの自殺の直接的な原因だったと断定することはできないという点です。
電通の公表資料では、業務量の急増、長時間労働、心理的ストレス、職場の人間関係、行き過ぎた指導などが問題として挙げられています。
鬼十則は、こうした問題を考える際に、電通の企業文化を象徴する存在として批判の対象になったのです。
電通が公表した労働環境の問題2016年12月28日の電通の発表には、当時の労働環境を考えるうえで重要な数字も掲載されています。
| 指標 | 2015年の実績 |
|---|---|
| 社員1人当たりの月間平均法定外労働時間 | 28.9時間 |
| 月80時間超の残業に相当する社員数 | 132人 |
| 2013年の月80時間超の残業に相当する社員数 | 357人 |
| 2014年の同人数 | 304人 |
ここで注目したいのは、平均残業時間と、長時間労働をしていた社員の人数には異なる問題が表れていることです。
全社員の平均値が比較的低くても、一部の部署や社員に業務が集中していれば、深刻な過重労働は発生します。
実際、電通は自社の企業風土について、過剰な品質志向、過剰な現場主義、強すぎる上下関係などが影響していたとの認識を示しました。
これは、単に鬼十則の表現を変更するだけでは解決できない組織的な問題でした。
2016年12月9日、電通が鬼十則の掲載取りやめを発表電通は2016年11月1日に、社長執行役員を本部長とする「電通労働環境改革本部」を発足させました。
その後、同年12月9日に発表した企業文化改革の施策のなかで、鬼十則を社員手帳などに掲載・掲出することを取りやめると正式に公表しました。
同時に発表された主な施策は次のとおりです。
- 管理職の評価に部下からの評価を取り入れる360度評価の導入。
- 社員の成長やキャリア開発を重視した評価制度の検討。
- 各部署で有給休暇取得率50%以上を目指す管理指標の導入。
- 制作会社などの協力企業に深夜作業や長時間労働を発生させないための発注ルールの見直し。
この発表で注目すべきなのは、鬼十則の削除が単独の施策ではなかったことです。
管理職の評価制度、社員の働き方、有給休暇、外部の制作会社との取引まで、企業文化そのものを見直す取り組みの一部として位置づけられていました。
2017年には労働基準法違反で有罪判決問題は社員手帳から鬼十則を削除しただけでは終わりませんでした。
2016年12月28日、電通と同社社員は労働基準法違反の容疑で東京労働局から書類送検されました。
加えて、2017年10月6日には東京簡易裁判所が電通に対し、労働基準法違反で罰金50万円の有罪判決を言い渡しています。
電通は公式発表で判決を厳粛に受け止め、労働環境改革を継続する姿勢を示しました。
鬼十則をめぐる問題は、仕事に対する精神論だけでなく、企業の法令遵守や管理職の責任、社員の健康を守る仕組みの重要性を社会に問いかける出来事となりました。
【鬼十則の評判と批判】功績と問題点をどう評価すべきか

鬼十則に対する評価は、決して一方向ではありません。
仕事に対する積極性や挑戦心を高める指針として評価する人がいる一方、自己犠牲を美徳とする企業文化を生みかねないとして批判する意見もあります。
ここでは、鬼十則の功績と問題点を分けて整理します。
鬼十則が評価されてきた3つの理由1. 主体性を重視している
指示を待たず、自分で仕事を見つけて行動する姿勢は、現在の企業でも評価される能力です。
特に企画職、営業職、マーケティング職などでは、課題を発見して自ら提案できる人材が大切です。
2. 困難な課題への挑戦を促している
簡単な仕事だけを選ぶのではなく、難しい課題に取り組むことで成長するという考え方は、キャリア形成にも通じます。
失敗を恐れず新しい仕事に挑む姿勢は、組織のイノベーションにもつながります。
3. 長期的な視点と責任感を重視している
短期的な利益だけを追い求めず、計画を持って仕事に取り組むという考え方も、現代の経営に通じる部分です。
成果を出すためには、目先の作業だけでなく、将来を見据えた取り組みが欠かせません。
鬼十則に対する批判的な意見一方、問題視されるのは、これらの価値観を極端に運用した場合です。
| 評価される側面 | 批判される側面 |
|---|---|
| 主体性を持って働く | 業務範囲が際限なく広がる |
| 最後までやり抜く | 休息や健康を犠牲にする |
| 周囲を巻き込む | 他人に過度な負担をかける |
| 高い目標に挑戦する | 無理な目標設定が常態化する |
| 摩擦を恐れず議論する | 強い言動や対立を正当化する |
| 細部まで気を配る | 完璧主義による過重労働につながる |
特に問題なのは、組織が社員に対して高い目標を求める一方、その達成に必要な人員や時間、支援体制を用意しない場合です。
このような状況では、仕事に対する主体性が、事実上の自己責任の押し付けに変わってしまいます。
鬼十則はブラック企業の象徴だったのか鬼十則を語る際、しばしば「ブラック企業の社訓」というイメージだけで説明されることがあります。
しかし、その評価だけでは成立当時の背景や10項目の内容を十分に理解できません。
吉田秀雄記念事業財団が2002年に発表した解説では、鬼十則が神話化され、高度経済成長期の単純な頑張り主義と同一視されてきたことに触れています。
同財団の解説は、吉田の本来の意図を、仕事に対する高い志を持つことに見いだしています。
つまり、鬼十則の評価には次の2つの視点が必要です。
- 理念としての評価: 主体性、挑戦、計画性、責任感など、時代を超えて通用する仕事の考え方。
- 企業文化としての評価: 強い表現や精神論が、職場の上下関係や過剰な労働を正当化する方向に利用される危険性。
言葉が優れた理念であっても、実際の職場でどのように使われるかによって、社員に与える影響は変わります。
鬼十則の功罪は、まさにこの点にあります。
【鬼十則の現在の扱い】2026年の働き方に活かせる考え方とは
2026年現在、鬼十則は電通の社員手帳などに掲載・掲出されることを取りやめた歴史的な仕事の心得として知られています。
ただし、ここで注意したいのは、2016年に発表されたのは社員手帳などへの掲載・掲出の取りやめだという点です。
「鬼十則」という歴史的な文書そのものが消滅したわけでも、すべての場面で引用や研究が禁止されたわけでもありません。
また、社員手帳への掲載をやめたことと、企業文化や労働環境が完全に変わったことも同じではありません。
2026年の電通が公表している労働環境データ電通は現在も労働環境改革の進捗状況を公表しています。
2026年度第2四半期、つまり2026年4月から6月までの公表データでは、次の数値が示されています。
電通の2026年度第2四半期・労働環境データ
0名
三六協定の月次超過者数
0名
三六協定の日次超過者数
12.8時間
1人当たり月間平均法定外労働時間
20件
ハラスメント関連相談件数(4〜6月)
出典:電通「労働環境改革の進捗状況 2026年度第2四半期の実績」。2026年6月30日時点。相談件数はハラスメントと認定された事案の件数ではありません。
この数字から読み取れるのは、少なくとも公表対象期間において、同社が三六協定の超過者数や残業時間、ハラスメント相談などを継続的に管理していることです。
一方、三六協定の超過者がゼロだからといって、すべての職場で問題がないと判断することはできません。
ハラスメント相談が20件あったという数字も、認定件数ではありません。相談が発生した背景や対応状況まで見なければ、職場環境の実態は分からないからです。
鬼十則をめぐる問題を考えるうえでは、理念の変更だけでなく、実際の労働時間や相談体制、管理職の行動がどう変わったかを継続して確認が必要です。
現代の働き方に取り入れられる5つの考え方鬼十則のすべてを否定する必要はありません。重要なのは、現代の労働環境に合わせて、健全な部分を取り出して活用することです。
| 鬼十則の考え方 | 現代的な実践方法 |
|---|---|
| 自分から仕事を作る | 課題を発見し、上司と相談して改善提案する |
| 先手で動く | 情報共有と事前準備を徹底する |
| 難しい仕事に挑む | 適切な支援と時間を確保して挑戦する |
| 長期計画を持つ | 無理のない目標と進捗管理を設定する |
| 摩擦を恐れない | 相手を尊重しながら建設的に議論する |
逆に、現代の職場で採用すべきではないのは、仕事を理由に健康や生活を犠牲にする考え方です。
また、周囲を動かすという考え方も、命令や威圧ではなく、相手の能力や意見を尊重するリーダーシップに置き換える必要があります。
【プロの結論】鬼十則から学ぶべきなのは、根性ではなく仕事への向き合い方鬼十則を現代の働き方に照らして評価するとき、最も重要なのは、仕事に対する責任と労働者の権利を対立させないことです。
仕事に主体的に取り組むことは大切です。しかし、主体性を持つことは、会社が用意すべき労働環境まで個人が背負うことではありません。
難しい目標に挑戦することも、周囲を巻き込むことも、十分な人員と時間、適切なマネジメントがあって初めて健全に機能します。
鬼十則を仕事の参考にするなら、次の判断基準が役立ちます。
取り入れやすい人・場面
- 自分から課題を発見して行動したい人。
- 仕事の質や専門性を高めたい人。
- 中長期のキャリア目標を持っている人。
- チームで協力しながら成果を出したい人。
そのままの精神論を採用すべきではない場面
- 人員不足を個人の努力だけで補っている職場。
- 長時間労働や休日出勤を当然視する組織。
- 上司への異議申し立てが難しい職場。
- 体調不良や業務過多を自己責任として扱う環境。
理念を実践することと、無理を強いられることは別です。
鬼十則の歴史が示す教訓は、社員に高い志を求める企業ほど、社員が健全に働ける環境を整える責任も大きいということです。
【鬼十則に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:鬼十則を作ったのは誰ですか?
A1:電通の第4代社長・吉田秀雄です。1951年7月に、自らが実践する仕事への心構えを10項目にまとめ、社員に示しました。
Q2:鬼十則はいつ廃止されたのですか?
A2:2016年12月9日に電通が社員手帳などへの掲載・掲出を取りやめると発表しました。2017年度以降の社員手帳への掲載も行わない方針が示されました。厳密には、歴史的な文書自体の消滅ではなく、社内での掲載・掲出の取りやめです。
Q3:鬼十則と高橋まつりさんの過労自殺には直接的な関係がありますか?
A3:鬼十則は事件後、特に第5項の表現が批判されるようになりました。ただし、電通が公表した調査では、長時間労働、業務量の増加、心理的ストレス、職場の人間関係、行き過ぎた指導などが問題として挙げられています。鬼十則だけを直接的な原因とすることはできません。
鬼十則は、1951年に電通の第4代社長・吉田秀雄が社員に示した10項目の仕事の心得です。
主体性、挑戦、責任感、計画性など、現代のビジネスでも通用する考え方が含まれる一方、強い表現が自己犠牲や過剰労働を肯定するものとして受け止められてきました。
2015年の高橋まつりさんの過労自殺、2016年の労災認定を経て、電通は同年12月に鬼十則の社員手帳などへの掲載・掲出を取りやめました。その後も労働環境改革を続け、2026年には労働時間や労務管理に関する進捗を公表しています。
鬼十則を単純に優れた社訓、あるいは時代遅れの精神論として片付けるだけでは、その歴史から十分に学べません。
仕事に対する高い志と、社員の健康や生活を守る責任は、両立させるべきものです。
これからの企業に求められるのは、社員に努力を求めるだけではなく、その努力が正しく成果につながる仕組みを整えることです。鬼十則の功績と批判の両方を理解することは、日本企業がこれからの働き方を考えるうえでも意味のある視点となります。