沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)にある「平和の礎(へいわのいしじ)」は、沖縄戦などで命を落とした人々の名前を刻み、戦争の記憶を後世へ伝えるための記念碑です。1995年6月23日の「慰霊の日」に除幕され、国籍や軍人・民間人の区別を超えて戦没者を悼む場所として、多くの人々が訪れています。
2026年の最新公表資料によると、平和の礎の刻銘者数は24万2,659人に達しました。沖縄県が公表した2026年6月23日現在の統計には、新たに刻銘された95人の内訳や、出身地別の人数も記録されています。読み方や建立の経緯、名前が刻まれる条件、平和の火の意味、戦没者名簿検索システムの利用方法まで、訪問前に知っておきたい情報を整理します。
【平和の礎とは?】読み方・場所・建立に込められた目的

平和の礎は、沖縄県が太平洋戦争・沖縄戦終結50周年記念事業の一環として整備し、1995年に完成させた記念碑です。「礎」は一般に「いしずえ」と読みますが、名称の「いしじ」は沖縄の言葉に由来しています。沖縄県公式サイトでも、正式な読み方を「へいわのいしじ」と案内しています。
設置場所は、沖縄戦終焉の地として知られる沖縄県糸満市摩文仁の沖縄県平和祈念公園内です。沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦によって、多くの命と地域の文化が失われました。平和の礎は、その犠牲を特定の立場や国籍だけに限定せず、一人ひとりの名前を通じて記憶にとどめるために建設されました。
建立の目的は、戦没者の慰霊だけではありません。沖縄県が示す基本理念には、戦争体験の教訓を次世代に継承すること、平和の尊さを再確認すること、子どもたちが平和について学べる場を形成することも含まれています。
つまり、平和の礎は単なる戦争記念碑ではなく、犠牲者の追悼と平和学習を結びつけた場所です。刻まれた名前を一つずつたどる行為は、戦争を抽象的な歴史としてではなく、実際に生きていた人々の人生の喪失として捉え直す機会になります。
【建立の経緯】1991年の構想から1995年6月23日の除幕まで
平和の礎の構想が具体化したのは1991年です。沖縄県は県立平和祈念資料館の改築や沖縄戦犠牲者を追悼する「平和の壁」の建設などを検討する懇話会を設置し、その後、事業を県の重点施策に位置づけました。
沖縄県の事業経過資料によると、1992年3月には建設構想の素案が作成され、名称が「平和の礎(いしじ)」に決まりました。1993年にはデザイン・アイデアコンペの大賞作品が選ばれ、応募総数は274点に上りました。同年10月には刻銘の基本方針が決定され、誰を対象とするかという原則も整えられました。
1994年7月に建設工事の起工式が行われ、1995年1月には沖縄県内の戦没者名簿が地元新聞2紙で公開されました。そして、終戦から50年を迎えた1995年6月23日の慰霊の日に除幕式典が開催されました。沖縄県の記録では、式典には約2,300人が出席し、糸満市内の小学校2校の児童234人が除幕を担っています。
この日を完成の日に選んだことにも意味があります。6月23日は、沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる日を踏まえ、沖縄県が「慰霊の日」と定めている日です。毎年この時期に戦没者の追悼と平和への祈りが重ねられることで、記念碑は過去の出来事を保存するだけでなく、現在の社会が戦争と向き合う場にもなっています。
建立までの主な流れを整理すると、次のとおりです。
- 1991年5月:建設などの基本構想を検討する懇話会を設置。
- 1992年3月:「平和の礎(いしじ)」という名称を決定。
- 1993年9月:デザイン・アイデアコンペの大賞作品を決定。
- 1993年10月:刻銘の基本方針を決定。
- 1994年7月:建設工事の起工式を実施。
- 1995年6月23日:慰霊の日に除幕式典を開催。
なお、1995年の除幕時に刻まれた名前は、1993年度に確定した名簿を基にしています。その後、新たに判明した戦没者についても計画的に追加刻銘が行われてきました。完成時の名簿で作業を終えるのではなく、調査や遺族からの申告を通じて記録を更新し続けている点が、平和の礎の大きな特徴です。
【2026年最新】平和の礎の刻銘者数24万2,659人と内訳
沖縄県が公表した「『平和の礎』刻銘者数一覧」によると、2026年6月23日現在の刻銘者総数は24万2,659人です。2025年度の総数は24万2,567人で、2026年度は95人が追加されました。一方、二重刻銘などに伴う3人の削除が反映され、差し引き92人の増加となっています。
2026年の追加刻銘は、沖縄県出身者32人、沖縄県以外の都道府県出身者62人、米国出身者1人の計95人です。沖縄県の公式統計に掲載された出身地別の総数を
| 出身地・国籍区分 | 2025年度の総数 | 2026年度の追加 | 2026年度の削除 | 2026年6月23日現在 |
|---|---|---|---|---|
| 沖縄県出身 | 149,674人 | 32人 | 3人 | 149,703人 |
| 沖縄県以外の都道府県出身 | 78,303人 | 62人 | 0人 | 78,365人 |
| 米国出身 | 14,011人 | 1人 | 0人 | 14,012人 |
| 英国出身 | 82人 | 0人 | 0人 | 82人 |
| 台湾出身 | 34人 | 0人 | 0人 | 34人 |
| 北朝鮮出身 | 82人 | 0人 | 0人 | 82人 |
| 大韓民国出身 | 381人 | 0人 | 0人 | 381人 |
| 合計 | 242,567人 | 95人 | 3人 | 242,659人 |
この数字から読み取れるのは、刻銘者の大部分を沖縄県出身者が占める一方、県外出身者や外国出身者も幅広く含まれていることです。平和の礎は沖縄県民だけの慰霊碑ではなく、沖縄戦に関わる犠牲者を国籍や軍人・民間人の区別を超えて記憶するための記念碑として設計されています。
2026年の追加刻銘については、琉球朝日放送(QAB)なども報じています。県外出身者62人の中には、沖縄へ向かう途中に米軍の攻撃を受けて沈没した戦艦大和の乗組員らが含まれています。また、米国出身者1人の追加も発表されました。こうした事例は、沖縄戦の犠牲が沖縄本島内にとどまらず、周辺海域や広い地域の人々にも及んだことを示しています。
なお、「24万2,659人」は2026年6月23日現在の公表値です。毎年の追加刻銘や名簿の整理によって総数が変わるため、検索時には統計の基準日を確認することが大切です。
【誰の名前が刻まれる?】刻銘対象者と基本方針を詳しく解説
平和の礎の刻銘対象者は、沖縄県が1993年10月26日に決定し、2003年6月3日に改定した「『平和の礎』に係る刻銘の基本方針」に基づいています。中心となる原則は、国籍を問わず、沖縄戦で亡くなったすべての人々を対象とすることです。ただし、沖縄県出身者と県外・外国出身者では、対象となる戦没時期や場所に違いがあります。
基本方針では、沖縄戦の期間を、米軍が慶良間諸島に上陸した1945年3月26日から、日本が降伏文書に調印した同年9月7日までと定めています。この期間に沖縄県内で亡くなった人々が対象となるほか、一定の条件を満たす県外や周辺地域での犠牲者も含まれます。
沖縄県出身者については、沖縄戦の期間に亡くなった人々だけでなく、満州事変が始まった1931年から続く15年戦争の期間中に、県内外で戦争が原因で死亡した人々も対象です。また、1945年9月7日以降、おおむね1年以内に戦争が原因で死亡した人々も対象となり、原爆被爆者については期間の例外が設けられています。
一方、沖縄県以外の都道府県や外国出身者には、沖縄守備軍第32軍が創設された1944年3月22日から1945年3月25日までの間に、南西諸島周辺で沖縄戦に関連する作戦・戦闘が原因で亡くなった人々なども含まれます。戦後についても、1945年9月7日以降、おおむね1年以内に沖縄県内で戦争が原因で死亡した人々が対象となります。
名簿は、出身地などに応じて複数の資料を基に整備されます。沖縄県出身者については、県や市町村が保管する公的名簿に加え、一家全滅者や乳幼児死亡者など、記録が残りにくい犠牲者についても調査が行われます。県外出身者は各都道府県から提供される名簿、米国出身者は米国政府から提供される名簿などが基礎資料です。遺族らの申告によって名簿を整備する仕組みもあります。
刻銘方法にも原則があります。戦没者の母国語で表記し、国別・都道府県別に整理するのが基本です。沖縄県出身者については市町村別・字別に配置され、横書きの明朝体で刻まれています。
重要なのは、名前が刻まれる基準が、単に「沖縄県内で亡くなったかどうか」だけでは決まらない点です。戦没者の出身地、死亡した時期、場所、戦争との因果関係など、基本方針に定められた条件に沿って判断されます。申請を検討している場合は、出身地によって手続きや相談先が異なるため、沖縄県の担当窓口で確認する必要があります。
【平和の広場と平和の火】記念碑の構造に込められた意味
平和の礎の特徴は、戦没者名を刻んだ石碑の配置にもあります。沖縄県の説明によると、斑れい岩を用いた刻銘碑は屏風状に並び、中央の「平和の広場」を囲むように円弧を描いて放射状に広がっています。5つ折り・12面タイプと3つ折り・8面タイプを合わせて120基が設置され、約25万人分の刻銘が可能な構造です。
この配置は、訪れた人が中央の広場から周囲の名前に向き合えるよう設計されています。刻銘碑の列は単なる壁ではなく、多数の個人の名前を一つの空間に集め、戦争によって失われた命を具体的に意識させる役割を果たしています。
広場の中央に灯されているのが「平和の火」です。この火は、沖縄戦で米軍が最初に上陸した場所の一つである座間味村阿嘉島で採取された火と、広島市の「平和の灯」、長崎市の「誓いの火」を合わせたものです。沖縄戦と原爆被害という異なる歴史を結び、戦争の犠牲を広く記憶する象徴となっています。
火が設置されている噴水は「さざなみの池」と名づけられています。また、メイン園路の中心線は、6月23日の慰霊の日の日の出の方位に合わせて設定されています。沖縄県が公表するデザインコンセプトは「平和の波永遠なれ」。激しい戦争の波が平和の波へと変わり、未来へ続くことへの願いが込められています。
慰霊の日に訪れると、平和の礎は沖縄全戦没者追悼式などとも結びつき、県内外から集まる人々が犠牲者を悼む場所になります。一方、式典のない日にも、静かに名前を探したり、石碑の配置や海への眺望を通して平和の意味を考えたりすることができます。
【訪問前に確認】アクセス・名簿検索システム・平和学習のポイント
平和の礎は、沖縄県糸満市摩文仁の沖縄県平和祈念公園内にあります。那覇市中心部からは南へ向かう移動となり、沖縄県の案内では県庁から公園までの距離は約20キロとされています。道路状況によって所要時間は変わるため、車で訪問する場合は時間に余裕を持って計画するのがおすすめです。
公共交通機関を利用する場合は、那覇バスターミナルから糸満バスターミナル方面へ向かい、そこから平和祈念公園方面の路線バスに乗り継ぐ方法があります。沖縄県が追悼式向けに公表した交通案内では、89番の糸満線で糸満バスターミナルへ向かい、82番の玉泉洞糸満線に乗り継いで「平和祈念堂入口」で下車する経路が紹介されています。路線や運行時刻は変更されることがあるため、訪問当日の最新情報を確認してください。
慰霊の日である6月23日は、追悼式の開催に伴って交通規制や混雑が発生する場合があります。2026年の沖縄全戦没者追悼式についても、沖縄県警は会場周辺の交通規制を案内しました。式典への参加や見学を予定している人は、通常時のアクセス情報だけでなく、当日の交通案内も確認しておくと安心です。
現地で特定の人の名前を探したい場合には、沖縄県の「平和の礎刻銘者検索システム」が役立ちます。沖縄県平和祈念資料館の案内によると、2025年6月からインターネットでも検索できるようになりました。現地では平和祈念公園内に2台、平和祈念資料館に1台の検索機が設置されています。
家族や親族の名前を探す場合は、氏名の表記だけでなく、出身地や当時の本籍地など、分かる範囲の情報を整理しておくと確認しやすくなります。検索で見つからない場合や追加刻銘を希望する場合は、刻銘対象となる条件や必要書類を沖縄県の担当窓口に相談する方法があります。県外出身者については、出身都道府県によって手続きが異なる場合があります。
平和学習を目的に訪れるなら、石碑を見て終わりにするのではなく、沖縄県平和祈念資料館の展示や園内の慰霊碑なども組み合わせると、沖縄戦の経過と犠牲の広がりを多角的に理解できます。特に子どもと訪れる場合は、刻銘者数の大きさだけでなく、一人ひとりに名前と人生があったこと、そして戦争が住民の暮らしに及ぼした影響について考える時間を設けることが大切です。
平和の礎は、観光地として景観を楽しむだけの場所ではありません。慰霊や学習を目的に訪れる人にとっては、誰の名前を探したいのか、沖縄戦について何を知りたいのかを事前に考えておくことで、訪問の意味がより明確になります。
【平和の礎】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:平和の礎の読み方は何ですか?
A1:「へいわのいしじ」と読みます。「いしじ」は沖縄の言葉に由来する表現で、沖縄県が正式な読み方として案内しています。
Q2:2026年現在、平和の礎には何人の名前が刻まれていますか?
A2:沖縄県の公表資料によると、2026年6月23日現在で24万2,659人です。2026年度には95人が追加され、二重刻銘などによる3人の削除も反映されています。
Q3:平和の礎には沖縄県出身者だけが刻銘されているのですか?
A3:いいえ。沖縄県出身者のほか、県外出身者や外国出身者も刻銘されています。国籍や軍人・民間人の区別を超えて、基本方針の条件に該当する戦没者を対象としています。
Q4:平和の礎に刻まれている名前はインターネットで検索できますか?
A4:できます。沖縄県の平和の礎刻銘者検索システムは2025年6月からインターネットでも利用できるようになりました。現地にも検索機が設置されています。
Q5:慰霊の日以外でも平和の礎を訪問できますか?
A5:慰霊の日以外にも訪問できます。6月23日は追悼式の開催などに伴い、混雑や交通規制が発生する場合があります。訪問前に公園や関連施設の最新案内を確認してください。
平和の礎は、沖縄戦などで亡くなった人々を国籍や立場の違いを超えて追悼し、戦争の教訓を後世に伝えるために建立された記念碑です。1991年に構想が具体化し、1995年6月23日の慰霊の日に除幕されました。完成後も名簿の調査や遺族からの申告を通じて追加刻銘が続けられています。
2026年6月23日現在の刻銘者数は24万2,659人。沖縄県出身者だけでなく、県外出身者や外国出身者の名前も刻まれていることは、沖縄戦の犠牲を広い視野から記憶するという建立の理念を表しています。
刻銘の対象や基準を理解することは、記念碑の意義を知るうえで欠かせません。また、平和の火や平和の広場の意味を知り、必要に応じて戦没者名簿検索システムや資料館を活用すれば、訪問はより深い学びにつながります。
平和の礎を訪れる際の判断基準は、単に記念碑を見ることではなく、そこに刻まれた一人ひとりの名前を通じて、戦争によって失われた命と平和の意味を考えられるかどうかです。沖縄戦の記憶を次の世代へつなぐためにも、慰霊と学習の両面から、この場所が伝えるメッセージに向き合うことが求められています。