最初に答えを示すと、軍艦島には遊郭と呼ばれた営業施設が実在した。その存在を裏付ける重要な資料が、軍艦島デジタルミュージアムに掲載されている元島民・高崎(矢持)邦穂氏の回想である。
2019年7月19日公開の「昭和20年前後の端島での生活」には、当時の南部商店街周辺の様子が具体的に記されている。
高崎氏の回想によると、ニコニコ食堂の前にある石段を下りた先には、酒店、理髪店、美容室、商店、豆腐屋などが並んでいた。加えて、その階段から右手の崖下には、風呂場と木造2階・3階建ての遊郭が存在していたという。
そこにあったのが、次の3軒だった。
- 吉田屋:朝鮮半島出身者が経営していた店。
- 森本屋:日本人客を相手にしていた店。
- 本田屋:日本人客を相手にしていた店。
この証言は、単に「昔、軍艦島に遊郭があった」という伝聞にとどまらない。周囲の商店、階段、郵便局、会社の購買部まで位置関係を含めて記憶されており、当時の島内の生活空間を再構成する手掛かりになる。
遊郭という言葉の意味にも注意が必要軍艦島の遊郭は、東京の吉原のように塀で囲まれた大規模な遊郭街だったわけではない。
2016年のSmart FLASHの取材では、軍艦島を長年調査していた『軍艦島入門』の著者・黒沢永紀氏が、実態は個別の遊女屋であり、元島民たちがそれらを遊郭と呼んでいたと説明している。
つまり、軍艦島遊郭という言葉は、厳密には独立した大規模歓楽街を意味するのではなく、南部商店街周辺に存在した複数の営業施設を指す呼称として理解するのが適切だ。
【場所と歴史】南部商店街に遊郭が置かれた理由と1933年の長崎新聞

軍艦島の遊郭を理解するには、まず島の構造を知る必要がある。
端島炭鉱は1890年に三菱社が買収し、本格的な開発が進められた。海底に良質な石炭を埋蔵する炭鉱として発展し、島は採掘量の増加に合わせて埋め立てによって拡張された。
狭い土地に炭鉱施設、住宅、商店、学校、娯楽施設が集積した結果、端島は海上の小さな島でありながら、都市に近い生活機能を備えるようになった。1974年の閉山まで三菱の炭鉱として操業が続いたことは、長崎市の文化財資料にも記録されている。
南部商店街は島の夜の繁華街だった遊郭があった南部商店街周辺は、単なる買い物場所ではなかった。
軍艦島デジタルミュージアムの元島民コラムによると、ニコニコ食堂は昼間には食堂として営業し、会社の寮で宿泊客や宴会がある際には会席料理も届けていた。
夕方になると酒場としての役割も担い、仕事を終えた鉱員たちが集まった。女給を相手に酒を飲み、その後に遊郭へ向かう人もいたという。
高崎氏は、この一帯について、夜になると島で最も賑やかな場所だったと振り返っている。
ここから分かるのは、遊郭が島の生活圏から切り離された施設ではなかったということだ。食堂、酒場、商店、浴場、郵便局などと近接し、炭鉱労働者の日常的な行動範囲に組み込まれていた。
1933年1月25日付の長崎新聞に本田屋が登場軍艦島遊郭の歴史を考えるうえで、重要なのが昭和8年、つまり1933年の長崎新聞に関する記録である。
後年に公開された端島の詳細年表には、1933年1月25日付の長崎新聞の記事として、本田屋を紹介する記述が採録されている。
その年表では、本田屋は県会議員・本田伊勢松氏が経営する料亭として紹介され、炭鉱労働者の心身を慰める存在として描かれている。
「これも端島の持つ一断面である」
これは当時の新聞記事の紹介として後年の資料に掲載されている一節である。2016年のSmart FLASHや2024年のプレジデントオンラインによる再編集記事でも、1933年の新聞記事と本田屋の関係が紹介されている。
ここで注目したいのは、1933年の紙面紹介では本田屋が「料亭」と表現されている点だ。新聞の紹介文だけで営業の具体的な内容すべてを確定することはできないが、元島民の証言に登場する本田屋と同じ名称が確認できることは、歴史をつなぐ重要な手掛かりとなる。
大正時代にはさらに多くの店があった?黒沢永紀氏の取材証言を掲載したSmart FLASHによると、大正時代には端島に遊郭が7軒あり、女性は約20人いたとされる。
一方、昭和期については南部商店街周辺の3軒に集約されたという証言が紹介されている。
ただし、7軒・20人という数字は元島民への聞き取りを基にした推計であり、全期間を網羅した公的な営業者名簿や女性の登録台帳によって確定された統計ではない。
【関係者・比較一覧】吉田屋・森本屋・本田屋の違いを整理
3軒の遊郭について、元島民の回想と後年の取材報道を照合すると、それぞれの位置付けが見えてくる。
この分類の中心的な根拠は、軍艦島デジタルミュージアムに掲載された元島民の証言であり、2016年のSmart FLASHでも黒沢氏による聞き取り調査の内容が紹介されている。
吉田屋はなぜ朝鮮半島出身者向けだったのか吉田屋については、朝鮮半島出身者が経営し、朝鮮半島出身者向けの店だったという証言がある。
黒沢氏は、利用者と女性の出身地域が分けられていた背景として、言葉の問題や朝鮮半島出身の労働者の存在を挙げている。
ただし、これは取材者による歴史的な解釈であり、当時の経営者が残した営業方針書や会社の正式な設置文書によって理由が確定しているわけではない。
また、吉田屋の存在をもって日本人と朝鮮半島出身者の待遇が同じだったと判断することもできない。利用者の区分、女性の出身、炭鉱労働者の雇用条件は、それぞれ別の問題として検証する必要がある。
【女性たちの暮らし】遊女や女性従業員はどのように生きていたのか
軍艦島遊郭の歴史で、最も記録が少ないのが、そこで働いていた女性たち自身の人生である。
男性鉱員の生活については、元島民の回想や炭鉱関係資料が比較的多く残っている。しかし、女性たちがどのような経緯で島に来て、どのような契約で働き、どんな生活を送っていたかを個人単位で追える資料は限られている。
本田屋の「コキン」さんという女性軍艦島デジタルミュージアムの高崎氏の回想には、本田屋に関係する「コキン」さんという女性が登場する。
高崎氏によると、コキンさんはニコニコ食堂の手伝いをしながら、客の取り持ちや客引きをしていた人物だった。
加えて、本田屋の遊郭を取り締まる立場にあり、朝鮮半島出身者で、若い頃は遊女だったと母親から聞いたという。
このエピソードは興味深い。朝鮮半島出身の女性が、日本人向けとされた本田屋の運営にも関わっていたという記憶が残されているからだ。
吉田屋と日本人向け2店舗という区分が存在した一方で、女性たちの生活や仕事上のつながりは、必ずしも店舗ごとの境界だけで説明できない可能性がある。ただし、コキンさんの経歴については高崎氏の母親から伝え聞いた話であり、本人の記録による確認とは区別する必要がある。
吉田屋の前で遊んでいた女性たち同じ回想には、吉田屋の前で過ごす若い女性たちの姿も記されている。
高崎氏は、天気のよい日に、チマチョゴリを着た17、18歳くらいに見える女性たちが、シーソーに似た木製の遊具で遊んでいた光景を覚えているという。
遊具は移動できる構造で、遊び終わると店内に片付けられていたようだ。
この記憶は、遊郭を利用する男性の側からではなく、島で暮らしていた子どもの視点から女性たちを捉えている点で貴重だ。
そこには、単に営業施設の一部として働く女性ではなく、島の中で日常を送っていた人間の姿がある。ただし、年齢や職業については当時の子どもの印象によるもので、個々の女性の身元や実年齢を確定する資料ではない。
遊女は何人いたのか2015年の週刊FLASHの取材では、写真家・酒井透氏が元島民から聞いた話として、3軒の遊郭に女性が常時約10人いたと紹介している。
同記事では、女性たちの年齢について、10代や20代の若い女性ばかりではなく、比較的年齢を重ねた女性が多かったという証言も掲載されている。
この約10人という数字と、大正時代の約20人という推計は、時代も対象範囲も異なる。単純に比較して女性が減少したと断定することはできない。
女性たちの労働条件は分かっているのかここには大きな史料上の空白がある。
現在広く参照されている元島民の回想からは、店の場所、女性の姿、経営に関わった人物、客の流れなどが分かる。しかし、女性一人ひとりの給与、前借金、契約期間、移動の自由、退職の条件などは十分に明らかになっていない。
したがって、全員が自発的に働いていた、あるいは全員が強制的に働かされていたと一括りにすることはできない。
遊郭の歴史を考えるとき、店舗の営業実態だけでなく、働いていた女性の選択肢や社会的な立場にも目を向ける必要がある。
【朝鮮半島出身者と戦前・戦後】遊郭の存在だけでは語れない炭鉱の歴史
吉田屋の存在を理解するためには、端島に暮らした朝鮮半島出身者の歴史も知っておかなければならない。
端島には日本人だけでなく、朝鮮半島出身者や中国人も働いていた。彼らの移動や労働の背景は、時期によって異なる。
1930年代と1940年代では状況が違う端島の朝鮮半島出身労働者について、2016年の取材記事は1920年代から島に働きに来ていた人々がいたと紹介している。
その後、戦争が拡大すると労働力動員の仕組みが変化した。国民徴用令の朝鮮半島への一般的な適用は1944年9月から始まった。この点は、裁判所の公開判決資料などにも記載されている。
つまり、1933年の本田屋の記事が紹介された時期と、1944年以降の戦時動員期は同じ状況ではない。
この区別は非常に重要だ。昭和初期に朝鮮半島出身者向けの店が存在したという事実から、戦時中の労働者全員の移動が自由だった、あるいは全員が同じ雇用条件だったと結論づけることはできない。
朝鮮人労働者の死亡記録と研究朝鮮半島出身者の労働実態については、死亡記録を分析した研究も存在する。
韓国の学術論文データベースKCIに掲載された端島炭鉱の研究では、1925~1945年の死亡記録を分析し、1944年から1945年に死亡者が集中する傾向を指摘している。
一方、分析対象となった火葬認許・変災報告書には、端島で亡くなった朝鮮人全員の記録が含まれているわけではないという資料上の制約も示されている。
この研究が示すのは、遊郭の存在だけでは把握できない、労働者の安全や生活環境に関する別の歴史的問題である。
また、長崎大学の研究リポジトリには、2005年に発表された「端島(軍艦島)における聞き取り調査及び現地調査」が収録されている。元島民への聞き取りと現地調査を組み合わせた研究であり、軍艦島を産業遺産としてだけでなく、生活共同体として捉えるための基礎資料となっている。
軍艦島の歴史は、炭鉱で働いた日本人、朝鮮半島出身者、中国人、島で暮らした家族、商店で働いた人々など、多様な立場の人々の経験を合わせて理解する必要がある。
【現在と跡地】軍艦島遊郭はどこにあった?建物は残っているのか
現在の軍艦島は、1974年の閉山によって住民が退去した無人島である。
かつての南部商店街や遊郭の建物も、当時の姿のまま営業施設として残っているわけではない。
遊郭跡地はどの辺りなのか元島民の証言から位置をたどると、遊郭は南部商店街の石段を下った先、岸壁を背にした木造建築が並ぶ一帯にあった。
周辺にはニコニコ食堂、海野酒店、鐘ヶ江商店、豆腐屋、郵便局、会社の購買部などがあったとされる。
また、後年の軍艦島紹介記事では、31号棟付近の1階部分に遊郭があったという説明も写真とともに紹介されている。こうした情報を合わせると、現在の島内に残る建築物や区画の歴史を考える際の参考になる。
ただし、現在の建物の一部を見て、それが吉田屋・森本屋・本田屋のどれかだと特定できるわけではない。遊郭の位置と現存する遺構の対応関係には、慎重な確認が必要だ。
1956年の台風と遊郭の終焉2024年に公開されたプレジデントオンラインの再編集記事では、吉田屋は後に文具店兼洋装店へと姿を変え、本田屋と森本屋は1956年の台風9号によって壊滅したと紹介されている。
軍艦島デジタルミュージアムに掲載された別の元島民コラムでも、1956年の台風9号と1959年の台風14号が島の建物や生活に大きな影響を与えたことが記されている。
ただし、台風による個別店舗の被害状況については、元の建物ごとの被災記録と照合する必要がある。
売春防止法は1957年ではなく1958年に全面施行軍艦島遊郭の終焉を語る際に、年代の訂正が必要な点がある。
一部の紹介記事では、売春防止法が1957年に施行されたと説明されている。しかし、法令の正式な沿革を確認すると、売春防止法は1956年5月24日に公布され、すべての規定が施行されたのは1958年4月1日である。
この日付は、2021年3月10日の衆議院法務委員会で政府参考人も説明している。したがって、1957年を全面施行の年とする説明は正確ではない。
その後、1974年1月15日に端島炭鉱が閉山した。現在は長崎市の管理する産業遺産であり、一般観光客は観光船による上陸ツアーを通じて見学する形となっている。長崎市の公式資料では、護岸や竪坑跡、鉄筋コンクリート造の建物群などが現存する遺構として紹介されている。
【2026年最新資料】軍艦島遊郭の真相を調べるための重要な史料
2026年11月時点で、軍艦島遊郭の歴史を調べる際に中心となるのは、元島民の証言、新聞記事の採録、聞き取り調査、炭鉱関係の歴史資料である。
軍艦島に関する資料は、保存されている建築物だけではない。生活を知る人々の記憶もまた、時間の経過とともに失われる可能性がある歴史資料だ。
まず確認したい4つの資料1.軍艦島デジタルミュージアムの元島民コラム
高崎(矢持)邦穂氏の「昭和20年前後の端島での生活」は、吉田屋・森本屋・本田屋の位置関係を確認するうえで特に重要な資料である。コキンさんや吉田屋の前で遊ぶ女性たちの記憶も残されている。
2.1933年1月25日付の長崎新聞に関する記録
本田屋に関する当時の紹介記事は、遊郭の存在を考えるうえで貴重な同時代資料である。後年の年表にも掲載されている。
3.長崎大学の聞き取り調査
2005年発表の「端島(軍艦島)における聞き取り調査及び現地調査」は、元島民の生活と島の構造を考えるための研究資料となる。
4.朝鮮半島出身労働者に関する研究
端島炭鉱の死亡記録や戦時動員を扱う研究を合わせて読むことで、吉田屋が存在した社会的背景をより立体的に把握できる。
なお、軍艦島デジタルミュージアムの元島民コラム一覧では、2023年公開の田中實夫氏の随筆や、2022年公開の李貴南(岩本千代)氏の回想なども確認できる。2026年現在も、こうした既存の記録を組み合わせて歴史を読み解くことが重要だ。
【プロの結論】軍艦島遊郭の歴史から分かる3つの重要な事実
軍艦島遊郭について調べると、ネット上では「本当に存在したのか」「朝鮮人専用の遊郭があったのか」「女性たちはどのように暮らしていたのか」という疑問が繰り返し取り上げられている。
現存する証言や資料を整理すると、要点は3つに集約できる。
第一に、遊郭の存在は元島民の具体的な記憶によって裏付けられている。
吉田屋・森本屋・本田屋という店名、南部商店街の位置、周辺の食堂や商店との関係が記録されている。単なる都市伝説として扱うべきものではない。
第二に、朝鮮半島出身者向けと日本人向けの店が分かれていたという証言がある。
しかし、この区分だけから当時の民族間の待遇や労働環境を判断することはできない。戦前から戦時中にかけての朝鮮半島出身者の歴史を別の資料で検証する必要がある。
第三に、女性たち自身の歴史は、まだ十分に記録されていない。
コキンさんの記憶や吉田屋の前で遊んでいた女性たちの姿は、貴重な手掛かりである。しかし、女性一人ひとりの名前、出身地、働き始めた事情、労働条件まで明らかになっているわけではない。
軍艦島は、近代日本の産業発展を象徴する場所であると同時に、そこに暮らした人々の仕事、娯楽、生活、そして社会的な格差が重なり合った場所でもあった。
炭鉱の歴史を坑道や建物だけで理解することはできない。南部商店街の小さな店や、そこで働いた女性たちの記憶をたどることによって、軍艦島という共同体の別の姿が見えてくる。
【軍艦島遊郭】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:軍艦島に遊郭は本当に存在したのですか?
A1:実在しました。軍艦島デジタルミュージアムに掲載された元島民の回想には、吉田屋・森本屋・本田屋の3軒が記録されています。南部商店街の石段を下りた崖下に、木造2階・3階建ての施設が並んでいたとされています。
Q2:軍艦島の遊郭にはどんな店がありましたか?
A2:吉田屋は朝鮮半島出身者向け、森本屋と本田屋は日本人向けだったと元島民が証言しています。また、1933年の長崎新聞に関する記録には本田屋が登場します。
Q3:軍艦島遊郭の跡地は現在も見学できますか?
A3:遊郭の建物が営業当時の姿で残っているわけではありません。現在は観光船による上陸ツアーで島の産業遺構を見学できますが、吉田屋・森本屋・本田屋の建物をそれぞれ特定できる状態ではありません。
Q4:遊郭で働いていた女性は何人いましたか?
A4:昭和期の3軒について、元島民への聞き取りを紹介した2015年の報道では、女性は合計約10人だったという証言があります。大正時代には約20人という推計もありますが、確定した公式統計ではありません。
Q5:軍艦島の遊郭はいつなくなったのですか?
A5:1956年の台風9号による被害や、その後の売春防止法の全面施行が転換点として紹介されています。売春防止法の全面施行日は1958年4月1日です。端島炭鉱自体は1974年に閉山しました。
軍艦島遊郭は、吉田屋・森本屋・本田屋という具体的な店名と、元島民の生活の記憶によって実在が裏付けられている。
特に軍艦島デジタルミュージアムに残る高崎(矢持)邦穂氏の回想は、遊郭の位置だけでなく、女性たちの姿や周辺の商店街の賑わいまで伝えている。
1933年の長崎新聞に関する記録、南部商店街の生活史、朝鮮半島出身者の労働史を合わせて見ると、軍艦島は単なる炭鉱施設ではなく、多様な人々が暮らした複雑な社会だったことが分かる。
2026年以降に重要になるのは、元島民の証言や古い新聞、写真、炭鉱関係資料をさらに照合し、これまで記録されにくかった女性たちの人生にも光を当てることだ。
軍艦島遊郭の歴史は、島の繁栄を支えた炭鉱労働者だけでなく、その周囲で働き、暮らした人々まで含めて初めて全体像が見えてくる。