五代目三遊亭圓楽は、東京都浅草に生まれました。本名は吉河寛海(よしかわ・ひろうみ)。1933年1月3日生まれで、2009年10月29日に76歳で亡くなっています。
若い頃から落語に親しみ、高校時代に身体を壊したことなどをきっかけに噺家を志しました。1954年9月に六代目三遊亭圓生へ入門し、1955年2月に前座名「三遊亭全生」を名乗ります。
師匠の圓生は、古典落語の幅広い演目を継承した名人です。圓楽はそのもとで修業を重ね、1958年に二つ目、1962年に真打へ昇進。同時に五代目三遊亭圓楽を襲名しました。
当時29歳。若手実力派として頭角を現し、立川談志、古今亭志ん朝、春風亭柳朝らと並んで落語界の次代を担う存在として注目されました。
五代目三遊亭圓楽の基本プロフィール| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 芸名 | 五代目三遊亭圓楽 |
| 本名 | 吉河寛海 |
| 生年月日 | 1933年1月3日 |
| 出身地 | 東京・浅草 |
| 師匠 | 六代目三遊亭圓生 |
| 前座名 | 三遊亭全生 |
| 二つ目昇進 | 1958年 |
| 真打昇進・襲名 | 1962年 |
| 主な肩書 | 落語家、『笑点』4代目司会者 |
| 受章 | 2007年・旭日小綬章 |
| 死去 | 2009年10月29日 |
| 享年 | 76歳 |
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1933年 | 東京・浅草に生まれる |
| 1954年 | 六代目三遊亭圓生に入門 |
| 1955年 | 前座名「三遊亭全生」を名乗る |
| 1958年 | 二つ目に昇進 |
| 1962年 | 真打昇進、五代目三遊亭圓楽を襲名 |
| 1966年 | 『笑点』の初回から大喜利メンバーとして出演 |
| 1977年 | 「薮入り」で文化庁芸術祭優秀賞 |
| 1978年 | 師匠とともに落語協会を脱会 |
| 1979年 | 師匠の死去後、大日本落語すみれ会を結成 |
| 1983年 | 『笑点』4代目司会者に就任 |
| 1985年 | 寄席「若竹」を開設 |
| 1988年 | 「中村仲蔵」で文化庁芸術祭賞 |
| 2006年 | 『笑点』を勇退 |
| 2007年 | 「芝浜」を最後の高座として引退を表明。旭日小綬章を受章 |
| 2009年 | 10月29日、肺がんのため死去 |
| 2010年 | 弟子の三遊亭楽太郎が六代目三遊亭円楽を襲名 |
| 2025年 | 最後の弟子・三遊亭王楽が七代目三遊亭円楽を襲名 |
※経歴は日本コロムビア、テイチクエンタテインメント、東京都議会の公開プロフィールなどを参考に整理しています。入門年については1954年とする資料と1955年とする資料があります。
【笑点の名司会者】「星の王子さま」と呼ばれた五代目円楽の人気

五代目円楽の名前を全国に広めた最大の舞台が、日本テレビの長寿演芸番組『笑点』です。
1966年5月15日の第1回放送から大喜利メンバーとして参加し、番組の黎明期を支えました。
その後、1977年にいったん番組を離れますが、1983年1月9日、三波伸介の急逝を受けて4代目司会者に就任しました。
2006年5月14日に勇退するまで、20年以上にわたって司会を務めています。
「星の王子さま」という愛称の由来五代目円楽には「星の王子さま」という印象的な愛称がありました。
この呼び名を支えたのは、当時の落語家としては目を引く端正な容姿と、知的で洗練された話し方です。
単に容姿が整っているだけではありません。映画や文学などにも詳しく、言葉の選び方や受け答えにも独特の知性がありました。
当時のテレビ演芸では、落語家が高座だけでなく、番組出演やトークでも存在感を発揮するようになっていました。
五代目円楽は、まさにその時代を象徴する人物です。
『笑点』の司会者としての特徴五代目円楽の司会には、落語家として培った間の取り方と、出演者の個性を引き出す進行力がありました。
大喜利は、出演者の回答だけで成立するものではありません。司会者が回答を受け止め、適切なタイミングで次の笑いにつなげる必要があります。
五代目円楽は、出演者との掛け合いを通じて番組全体のテンポをつくりました。
また、司会者として知られる一方、本人も回答者として大喜利に参加していた経験を持っています。この両方の立場を経験したことは、番組運営における強みだったと考えられます。
2006年5月の勇退はなぜ起きたのか五代目円楽は、晩年に腎臓の病気や脳梗塞などを経験していました。
2005年には脳梗塞で倒れ、長期療養を余儀なくされます。
2006年3月には番組に復帰したものの、体調面の問題から従来どおりの司会を続けることは難しくなっていました。
そして同年5月14日、桂歌丸とともに最後の司会を務め、『笑点』を勇退します。
後任の5代目司会者には桂歌丸が就任しました。
ここで重要なのは、五代目円楽が『笑点』を勇退した時点で、落語家としての活動まで完全に終わったわけではないことです。
翌2007年には最後の高座に臨んでおり、芸への思いは最後まで残っていました。
【五代目圓楽一門会の設立】師匠・六代目圓生との決断と弟子たち
五代目円楽の生涯を理解するうえで欠かせないのが、師匠である六代目三遊亭圓生との関係です。
二人の関係は、単なる師弟関係にとどまりません。落語界の組織運営や一門の独立にも大きな影響を与えました。
1978年の落語協会脱会と落語三遊協会1978年、落語協会では真打昇進制度などをめぐる意見の対立が起きました。
この問題を背景に、六代目圓生は落語協会を脱会する決断を下します。
五代目円楽も師匠に同行し、落語三遊協会の設立に参加しました。
ただし、協会を離れることには大きな不利益も伴いました。
当時の東京の主要な定席である次の4施設に出演できなくなったのです。
- 上野鈴本演芸場
- 新宿末廣亭
- 浅草演芸ホール
- 池袋演芸場
つまり、既存の寄席を中心とする興行ルートから離れ、自分たちで落語会を開催する必要が生じました。
師匠の死去と一門の独立1979年9月3日、六代目三遊亭圓生が亡くなります。
落語三遊協会は解散し、五代目円楽は自身の弟子たちを率いて「大日本落語すみれ会」を結成しました。
1985年には名称を「落語円楽党」に変更。
さらに同年、東京都江東区東陽に163席の寄席「若竹」を開設します。
これは当時の落語界では珍しい、噺家自身が資金を投じてつくった独自の寄席でした。
若竹は一門の定席として機能し、弟子たちが高座に上がる場を提供しました。しかし、経営上の事情から1989年に閉場しています。
1990年には団体名を「円楽一門会」に変更。五代目円楽の死去後、2009年11月21日に「五代目圓楽一門会」となりました。
五代目円楽の主な弟子・関係者| 人物 | 五代目円楽との関係 | 主な役割・経歴 |
|---|---|---|
| 六代目三遊亭圓生 | 師匠 | 1954年に入門した芸の師 |
| 六代目三遊亭円楽 | 弟子 | 旧名・三遊亭楽太郎。2010年に襲名 |
| 三遊亭好楽 | 弟子 | 円楽一門の主要な落語家 |
| 三遊亭鳳楽 | 弟子 | 一門の中心的な真打 |
| 三遊亭王楽 | 最後の弟子 | 2025年に七代目円楽を襲名 |
五代目円楽の功績は、自身の芸を磨いただけではありません。
師匠の圓生とともに既存の協会から離れ、その後は弟子たちが活動できる組織と興行の場を整えました。
寄席「若竹」の開設は、その象徴です。
落語家にとって高座は、芸を披露するだけでなく、観客との関係を育て、後進へ技術を伝える場所でもあります。
一門独自の活動基盤を整えたことは、五代目円楽が残した組織的な遺産といえます。
現在の五代目圓楽一門会公式サイトによると、一門は両国寄席などの興行を継続し、落語協会や落語芸術協会など他団体の落語家とも共演しています。
【代表作と最後の高座】「中村仲蔵」「芝浜」に見る五代目円楽の芸
五代目円楽はテレビでの知名度が高い人物ですが、落語家としての評価も見逃せません。
特に人情噺を得意とし、「中村仲蔵」「芝浜」「薮入り」などが代表的な演目です。
文化庁芸術祭で評価された「薮入り」1977年、五代目円楽は「薮入り」で文化庁芸術祭優秀賞を受賞しました。
「薮入り」は、奉公に出た子どもが久しぶりに実家へ帰る日を題材とした人情噺です。
親子の情愛や、子どもを思う親の心情が物語の中心にあります。
笑いだけではなく、人物の感情を丁寧に描き出すことが求められる演目です。
テレビの司会者として親しまれた五代目円楽が、落語家としても高く評価されていたことを示す受賞でした。
代表作「中村仲蔵」と1988年の受賞もう一つの代表作が「中村仲蔵」です。
歌舞伎役者の中村仲蔵を主人公とする人情噺で、芸に対する執念や、周囲からの評価に左右されない努力を描いています。
物語の中心にあるのは、役者が与えられた役をどのように自分の芸へと昇華させるかという問題です。
五代目円楽は、この演目で1988年に文化庁芸術祭賞を受賞しました。
「薮入り」と「中村仲蔵」の両方で文化庁芸術祭の賞を受けたことは、話芸の幅を示す実績です。
また、テイチクエンタテインメントの落語家プロフィールでも、「浜野矩随」「宮戸川」「たがや」「短命」などが得意演目として紹介されています。
最後の高座は2007年2月25日の「芝浜」五代目円楽の最後の高座として知られるのが、2007年2月25日の「芝浜」です。
会場は東京の国立演芸場。国立名人会で演じました。
「芝浜」は、酒好きの魚屋が大金の入った財布を拾ったことから始まる人情噺です。
夫婦の信頼、生活の立て直し、過去の過ちと向き合う姿が物語の軸となっています。
五代目円楽は、2005年の脳梗塞や長年の腎臓病などを抱えながら、復帰を目指して高座に臨みました。
しかし、本人は自らの出来に納得できず、この高座を最後に第一線からの引退を表明します。
この経緯は、当時の報道やイミダスの人物解説にも記録されています。
「芝浜」が最後の高座となったのは、単なる体調不良による活動休止ではなく、芸に対する本人の厳しい姿勢とも結びついていました。
五代目円楽の死因は転移性肺がんだったのか五代目円楽は、2009年10月29日午前8時15分、肺がんのため76歳で死去しました。
当時の日刊スポーツやスポーツニッポンの訃報は、死因を肺がんと報じています。
晩年の病状については、次のような経過が伝えられています。
- 2005年:脳梗塞を発症。
- 2006年:『笑点』の司会を勇退。
- 2007年:最後の高座を終え、現役引退を表明。
- 2008年4月:肺がんの手術を受ける。
- 2008年5月:肺がんの再発が報じられる。
- 2009年9月:入院し、療養を続ける。
- 2009年10月29日:死去。
三浦綾子記念文学館の人物紹介記事では、死因を「転移性肺癌」と記載しています。一方、当時の主要な訃報では「肺がん」と報じられています。
したがって、一般的なプロフィールや訃報の表記としては肺がんとするのが確実です。転移性肺がんという表現は、同文学館の記述に基づくものです。
スポーツニッポンの2009年10月31日付報道では、長男の証言として、2008年に手術した肺がんが再発し、闘病が続いていた経緯も伝えられました。
【円楽の歴代名跡と襲名比較】六代目・七代目への継承はどう進んだ?
「五代目円楽」「六代目円楽」「七代目円楽」という名前は、同一人物を指しているわけではありません。
それぞれ別の落語家が襲名した名跡です。
三遊亭円楽という名前は明治初期に始まったとされ、初代から四代目までは、後に別の名跡を名乗った人物もいます。
五代目の時代に『笑点』を通じて全国的な知名度を獲得し、その後、六代目、七代目へと受け継がれました。
初代から七代目までの歴史| 代 | 落語家・旧名 | 襲名・継承の特徴 |
|---|---|---|
| 初代 | 後の三代目三遊亭圓生 | 明治初期に名跡が始まる |
| 二代目 | 初代三遊亭小円朝 | 後に三遊一朝を名乗る |
| 三代目 | 後の林家彦六 | 林家正蔵などを経て活躍 |
| 四代目 | 三代目三遊亭三福 | 1942年に襲名、後に三代目柳亭市馬を名乗る |
| 五代目 | 三遊亭全生 | 1962年に襲名。『笑点』司会者として全国的に知られる |
| 六代目 | 三遊亭楽太郎 | 2010年に襲名。五代目の弟子 |
| 七代目 | 三遊亭王楽 | 2025年2月20日に襲名。五代目の最後の弟子 |
※初代から四代目の人物の変遷は、日刊スポーツの名跡解説に基づいています。
六代目三遊亭円楽は誰?五代目との関係六代目三遊亭円楽は、旧名・三遊亭楽太郎です。
1950年生まれで、1970年4月に青山学院大学在学中、五代目三遊亭圓楽に入門しました。
入門後は六代目三遊亭圓生から「楽太郎」の名を授かり、1981年に真打へ昇進します。
五代目円楽と同じく『笑点』で活躍し、知的な回答や毒舌を交えた芸風で人気を獲得しました。
2008年8月には、五代目円楽と楽太郎がそろって記者会見を開き、2010年春に六代目三遊亭円楽を襲名することを正式発表しました。
これは五代目の生前に行われた名跡の継承準備でした。
2010年3月、楽太郎は六代目を襲名。五代目の芸名を受け継ぎ、独自の活動を展開しました。
六代目は2022年9月30日に72歳で亡くなっています。
七代目三遊亭円楽は三遊亭王楽七代目三遊亭円楽を襲名したのは、三遊亭王楽です。
1977年11月7日生まれで、父は三遊亭好楽。
2001年5月、五代目円楽に入門しました。五代目にとって27番目、最後の弟子にあたります。
王楽は2004年に二つ目へ昇進し、2008年にはNHK新人演芸大賞の落語部門で大賞を受賞。2009年には真打に昇進しました。
そして2024年9月、五代目円楽一門会が七代目襲名を発表します。
実際の襲名日は2025年2月20日です。
襲名にあたり、王楽は五代目と六代目が大きくした名跡を受け継ぐことへの決意を表明しました。
ここで注目したいのは、七代目が六代目の弟子ではなく、五代目円楽の最後の弟子だという点です。
つまり、七代目の襲名は、五代目から直接受け継がれた師弟関係の系譜を改めて示す出来事でもあります。
また、父の三遊亭好楽と師匠の五代目円楽は師弟関係にあり、好楽と王楽は親子でありながら兄弟弟子という関係でもあります。
駒澤大学の公式発表や落語芸術協会のプロフィールにも、王楽の入門から七代目襲名までの経歴が掲載されています。
【2026年最新情報】五代目円楽の現在と七代目三遊亭円楽の活動
2026年現在、五代目三遊亭圓楽本人は2009年に亡くなっているため、現役活動や現在の出演番組はありません。
一方、五代目が築いた一門と円楽の名跡は現在も存続しています。
七代目三遊亭円楽は2026年も活動中七代目三遊亭円楽は、2025年2月の襲名以降、落語家として活動を続けています。
五代目円楽の最後の弟子として、師匠から受け継いだ古典落語を大切にしながら、独演会や寄席などに出演しています。
2026年11月現在、落語芸術協会の公式プロフィールには、11月24日の「しのばず寄席」への出演予定が掲載されています。
また、本人の公式サイトでは2026年の落語会やBS日テレ『笑点特大号』の出演情報も告知されています。
七代目は五代目の名を継ぐだけでなく、独自の落語家としての活動領域を広げている段階です。
五代目円楽一門会も活動を継続五代目円楽が設立した一門会も、2026年現在存続しています。
公式サイトによると、主な活動拠点の一つは東京都墨田区の「お江戸両国亭」です。
両国寄席をはじめ、江東区の亀戸梅屋敷寄席などでも興行を行っています。
また、他団体の落語家との共演も進んでおり、1978年の落語協会脱会当時とは落語界の環境も変わりました。
これは五代目が築いた独自の活動基盤が、後進の時代にも機能していることを示しています。
ネットで混同されやすい3つのポイント五代目円楽を調べる際には、次の3点を区別すると情報を整理しやすくなります。
| よくある疑問・誤解 | 正しい情報 |
|---|---|
| 五代目円楽は現在も存命? | 2009年10月29日に死去 |
| 六代目と七代目は同じ人物? | 六代目は楽太郎、七代目は王楽という別人 |
| 七代目は六代目の弟子? | 五代目円楽の最後の弟子で、六代目とは兄弟子・弟弟子の関係 |
特に「五代目円楽の現在」という検索では、五代目本人の晩年の情報と、現在の七代目の活動情報が混在しやすくなっています。
名前が同じでも、人物と活動時期を分けて確認することが大切です。
【五代目円楽に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:五代目円楽は何歳で亡くなりましたか?
A1:2009年10月29日に76歳で亡くなりました。死因は肺がんです。晩年は脳梗塞や腎臓病なども抱え、療養生活を送っていました。
Q2:五代目円楽の最後の高座は何ですか?
A2:2007年2月25日、国立演芸場の国立名人会で演じた「芝浜」です。本人が高座の出来に納得できなかったこともあり、この公演を最後に第一線からの引退を表明しました。
Q3:五代目円楽の弟子で現在の七代目円楽は誰ですか?
A3:三遊亭王楽です。五代目円楽の27番目で最後の弟子であり、2025年2月20日に七代目三遊亭円楽を襲名しました。父は三遊亭好楽です。
五代目三遊亭圓楽は、『笑点』の司会者として全国的な人気を獲得した一方、古典落語の名演や一門の組織づくりにも力を注いだ落語家でした。
その生涯を振り返ると、特に評価すべき功績は3つあります。
1. テレビ演芸への貢献: 1966年の『笑点』初回から参加し、1983年から2006年まで4代目司会者として番組を支えたこと。
2. 落語家としての実績: 「薮入り」「中村仲蔵」などで文化庁芸術祭の賞を受け、話芸の実力を示したこと。
3. 後進育成と組織づくり: 五代目圓楽一門会の基盤を築き、六代目、七代目へと続く名跡継承の流れを残したこと。
特に注目したいのは、五代目円楽が残したものは、単なる有名な芸名ではないという点です。
師匠・六代目三遊亭圓生から受け継いだ芸を磨き、自らの弟子を育て、独自の興行基盤を整えました。そして、その最後の弟子である三遊亭王楽が七代目を襲名したことで、師弟関係を通じた継承の歴史が2025年以降にも続いています。
五代目円楽を知るには、『笑点』の名司会者という一面だけでなく、古典落語の演者、弟子を育てた師匠、そして落語界の組織づくりに取り組んだ人物という3つの視点が欠かせません。
2009年の死去から17年が経過した2026年現在も、その芸と名跡は落語界に受け継がれています。