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【死因の答え】向田邦子を襲った遠東航空103便墜落事故とは?

霧島 直人 霧島 直人 • 更新: • 公開: • 読了約 18 分
目次

向田邦子さんの死亡理由は、病気や老衰ではなく、台湾で発生した航空機事故です。

事故が起きたのは、1981年(昭和56年)8月22日。台湾の航空会社・遠東航空が運航する103便が、台北から高雄へ向かう途中、台湾中部の苗栗県三義郷付近で空中分解し、墜落しました。

事故機はボーイング737-200型機。機体記号はB-2603でした。搭乗していたのは乗客104人と乗員6人の合計110人で、生存者はいませんでした。

向田さんは、翌年に予定されていたテレビ番組の取材を兼ねて台湾を訪問していました。同行していたスタッフ3人も事故に巻き込まれています。

当時51歳。直木賞受賞から約1年という、作家として新たな可能性が広がっていた時期でした。日刊ゲンダイの過去記事も、事故の発生時刻を台湾時間午前10時10分、日本時間午前11時10分ごろと伝えています。

三義空難と呼ばれる事故

この事故は、台湾では「三義空難」とも呼ばれています。三義とは、墜落現場となった苗栗県三義郷の地名です。

遠東航空103便は、台北松山空港を出発して高雄へ向かう国内線でした。しかし、離陸から約14分後、三義付近の上空で機体が破壊され、広範囲に残骸が散乱する大事故となりました。

台湾の新竹地方検察署が公開している沿革資料にも、この事故の経緯が記録されています。乗員6人、乗客104人の全員が死亡し、日本人作家の向田邦子さんも犠牲になったことが記されています。

【事故当日の行程】向田邦子はなぜ台湾で飛行機に乗っていたのか?

向田邦子死因

向田さんが台湾に滞在していたのは、単なる観光旅行だけが目的ではありませんでした。

日刊ゲンダイの報道によると、翌年に予定されていたテレビ番組の取材を兼ねた約1週間の旅行でした。向田さんは旅行好きとしても知られ、仕事から離れて海外を訪れることを楽しんでいたと伝えられています。

ところが、事故当日の103便には、出発前から見過ごせない問題がありました。

当初の目的地は澎湖だった

台湾の新竹地方検察署が公開する公式資料によると、1981年8月22日の遠東航空103便は、当初、台北から澎湖(ほうこ)へ向かう予定でした。

しかし、離陸から約10分後に客室の与圧に異常が発生し、航空機は出発空港へ引き返しました。

機体は点検・修理を受けた後、予定を変更して台北から高雄へ向かう便として再び運航されることになりました。

この変更後の便に向田さんが搭乗していたのです。事故の経緯を理解するうえで、出発前にすでに客室与圧の問題が発生していた事実は見逃せません。

事故当日の時系列

当日の流れを整理すると、次のようになります。時刻は台湾現地時間を基準としています。



午前中・当初の出発

台北松山空港から澎湖へ向かう予定だった103便が離陸。


離陸約10分後

客室与圧の異常が発生し、機体は台北へ引き返す。


午前9時55分

点検・修理後、台北発高雄行きとして再出発。


午前10時10分ごろ

離陸約14分後、苗栗県三義郷付近の上空で機体が空中分解。


事故発生後

乗員6人、乗客104人の計110人全員が死亡。向田邦子さんも犠牲となった。

この経緯は、台湾の新竹地方検察署の記録と、事故当時の日本の報道を照らし合わせると確認できます。

【事故原因の真相】ボーイング737-200はなぜ空中分解したのか?

遠東航空103便の事故で、最も重要なのが機体の構造的な問題です。

調査によって明らかになった主な原因は、機体の胴体下部に進行していた深刻な腐食でした。

単純にエンジンが停止したという話ではありません。機体の構造そのものが、飛行中に加わる圧力に耐えられない状態になっていたのです。

1. 胴体下部の腐食が進んでいた

台湾当局の事故調査結果を引用した米国国家運輸安全委員会(NTSB)の航空事故報告書には、遠東航空B-2603の事故原因が記録されています。

そこでは、胴体下部の構造部分に広範囲の腐食が発生していたことが指摘されています。

腐食によって金属部分には穴や亀裂が生じ、外板の厚みも低下していました。加えて、長期間の運航で蓄積された加圧・減圧の繰り返しも、構造への負荷となっていました。

同報告書によれば、事故機の着陸回数は33,313回に達していました。着陸回数は飛行中の与圧サイクルを考える際の重要な指標です。

2. 急激な減圧によって機体構造が破壊された

旅客機は高度が上がると、機内の気圧を一定に保つために与圧システムを使用します。

そのため、飛行中の機体には内側から外側へ向かう圧力が継続的にかかります。胴体の金属構造は、その圧力に耐えられるよう設計されています。

しかし、腐食によって金属の強度が低下し、亀裂や損傷が広がっていれば、正常な状態では耐えられる圧力にも対応できなくなります。

103便では、飛行中に胴体下部の構造が破断し、急激な減圧が発生しました。その影響で客室床の梁や接続部材なども破壊され、操縦系統のケーブルや電気配線にも損傷が及びました。

結果として機体の制御が失われ、空中分解に至りました。これは台湾民航当局の事故調査結果を引用したNTSB報告書に記された事故の技術的経過です。

事故機と同型のボーイング737-200型機。事故機の機体記号はB-2603だった。

3. 「与圧隔壁の腐食」という説明は正確なのか?

事故について調べると、「与圧隔壁の腐食が原因だった」という説明を目にすることがあります。

しかし、事故調査記録を詳しく見ると、中心的な損傷箇所は、前部貨物室付近を含む胴体下部の構造と外板です。

台湾の新竹地方検察署の記録にも、前部貨物室の下側にある外板が腐食し、薄くなった部分に穴や亀裂が生じていたと記されています。

したがって、事故原因を単に「後部の与圧隔壁が壊れた」と説明するのは正確ではありません。機体下部の腐食による構造破壊と、その後の急激な減圧という流れで理解する必要があります。

4. 整備・防食管理にも問題が指摘された

台湾の検察当局の記録では、遠東航空が機体の防錆処理を十分に行っていなかったことも指摘されています。

腐食が進行し、機体の外板に穴や亀裂が生じるほどになっていたことから、整備や修理の不備が問題視されました。

一方、事故後の刑事裁判では、台北地方法院と最高法院の双方で被告全員に無罪判決が出ています。

ここは区別が必要です。事故調査で技術的な原因や整備上の問題が指摘されたことと、刑事裁判で個人の刑事責任が認定されたかどうかは、別の問題です。

【事故の経緯と関係者】向田邦子・遠東航空103便・台湾当局の関係

事故を理解するためには、向田さん個人の搭乗記録だけでなく、航空会社、機体、事故現場、調査機関の関係を整理することが大切です。

以下に、確認できる主要な事実をまとめました。

項目 事実・関係 向田邦子 台湾取材旅行中に103便へ搭乗。享年51歳。 遠東航空103便 台北発高雄行き。1981年8月22日事故発生。 事故機 ボーイング737-200型機。機体記号B-2603。 乗客・乗員 乗客104人、乗員6人。合計110人全員が死亡。 事故現場 台湾苗栗県三義郷付近。「三義空難」と呼ばれる。 台湾民航当局 機体の腐食、急激な減圧、胴体構造の破壊を事故原因として調査。 台湾検察当局 整備・防錆処理の問題を記録。刑事裁判では被告全員が無罪。 向田和子 邦子さんの妹。事故前日に台湾からの電話を受けた経験を後年に証言。

この関係を整理すると、向田さんの死は単独の著名人の事故死ではなく、航空機の構造的な安全管理と整備体制が問われた重大事故の一部だったことが分かります。

【向田邦子の最期の様子】妹・向田和子が語った台湾からの電話

事故の技術的な原因とは別に、多くの読者が気にかけるのが、向田さんが亡くなる直前にどのような時間を過ごしていたのかという点です。

この疑問に関して、2026年3月に文春オンラインが掲載した記事が重要な証言を伝えています。語り手は、実妹の向田和子さんです。

事故前日にあった珍しい国際電話

向田和子さんによると、邦子さんは台湾に到着した翌朝、日本の家族に国際電話をかけてきました。

普段の邦子さんは、電話で長話をするタイプではありませんでした。むしろ、せっかちな性格で、家族に対しても電話は短く済ませるように言っていたそうです。

ところが、その日だけは違いました。

妹との会話が長く続き、その後、電話を代わった母親とも長い時間話していたといいます。

和子さんは、いつもと違う姉の様子に不思議な感覚を覚えたと振り返っています。

「いつもの邦子じゃない」

これは、妹が後年、当時の母親の様子を振り返って伝えた言葉です。いつもと違う姉の電話に、母親も何かを感じていたという証言でした。

電話の内容に残された姉妹の関係

電話では、妹との間で普段の生活にまつわる話も交わされました。

和子さんが姉に対して、いつも奢ってもらってばかりだから今度は自分が奢り返したい、という趣旨の話をすると、邦子さんはそれを受け入れる返事をしたといいます。

その後、母親とも話し続けていたことから、和子さんの記憶には、普段とは違う長い電話として残りました。

このエピソードは、事故を予知していたという話ではありません。あくまで、妹が後年に振り返った家族との最後の会話の記録です。

機内での最後の様子は分かっているのか?

事故前日の電話については、妹本人の証言が残っています。一方、事故当日の機内で向田さんが具体的に何をしていたのか、どのような表情だったのか、最後に誰と会話したのかといった個人的な状況は、広く確認できる記録には残されていません。

事故機は急激な減圧と構造破壊によって空中分解しました。乗員・乗客全員が犠牲となったことは公的記録で確認できますが、向田さん個人の最期の瞬間を具体的に再現することはできません。

それだけに、妹の証言に残された台湾からの電話は、事故の直前に向田さんが家族と交わした貴重な記憶として読み継がれています。

【作家としての歩み】向田邦子は直木賞受賞後、何を残したのか?

向田さんの死を語るうえで忘れてはならないのが、作家・脚本家としての大きな業績です。

1929年11月28日、東京生まれ。実践女子専門学校を卒業後、映画雑誌の編集者を経験し、ラジオやテレビの脚本を書く仕事に進みました。

日常生活に潜む人間の感情や家族の微妙な関係を描くことに優れ、テレビドラマの脚本家として高い評価を獲得しました。

向田邦子の主な経歴と転換点



1929年11月28日:東京に生まれる

実践女子専門学校で学び、卒業後は出版・編集の仕事に携わる。


1950年代後半:脚本の世界へ

映画雑誌の編集者として働きながら、ラジオ・テレビの台本を執筆するようになる。


1964年:『七人の孫』

テレビドラマの脚本家として人気を集める転機となる。


1974年:『寺内貫太郎一家』

家族の日常や人間関係を描いた作品で広く知られる。


1979年:『阿修羅のごとく』

家族の内側にある複雑な感情や人間模様を描き、代表作の一つとなる。


1980年:第83回直木賞受賞

「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」の3作品で文学賞を受賞する。


1981年8月22日:台湾航空機事故

遠東航空103便の墜落事故で51歳の生涯を終える。


1983年:向田邦子賞の創設

優れたテレビドラマの脚本を顕彰する賞として創設される。

この経歴は実践女子大学図書館の人物紹介や出版社の著者プロフィールなどに基づいています。

直木賞を受賞した『思い出トランプ』


新潮文庫
直木賞受賞作を収録した短編集。人間の弱さ、ずるさ、家族や夫婦の間にある複雑な感情を描いた作品群。

1980年、向田さんは第83回直木賞を受賞しました。

受賞対象となったのは、短編「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」の3作品です。これらは後に短編集『思い出トランプ』に収録されました。

公益財団法人日本文学振興会の直木賞受賞者一覧にも、1980年上半期の受賞者として向田邦子さんの名前が掲載されています。

向田邦子作品が現在も読み継がれる理由

向田作品の特徴は、特別な事件や劇的な展開だけに頼らず、家庭の食卓、夫婦の会話、親子の距離感、何気ない生活の仕草から人間の本質を描くことです。

例えば『寺内貫太郎一家』では家族の日常にある衝突や愛情を、『阿修羅のごとく』では家族の中に隠された複雑な感情を描きました。

エッセイ『父の詫び状』でも、身近な家族の記憶を通じて、時代の空気や人間の可笑しさ、切なさを表現しています。

向田さんは1981年に亡くなりましたが、その後も著作は刊行され続け、脚本家としての功績も評価されています。2026年は没後45年にあたり、文春オンラインでも「没後45年」の特集が組まれ、妹の和子さんによる新たな証言が紹介されました。

【向田邦子の死因】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:向田邦子の死因は何ですか?

A1:1981年8月22日に台湾で発生した遠東航空103便の墜落事故です。台北から高雄へ向かうボーイング737-200型機が苗栗県三義郷付近で空中分解し、乗員・乗客110人全員が死亡しました。向田さんは享年51歳でした。

Q2:遠東航空103便の事故原因は何だったのですか?

A2:機体の胴体下部に発生していた深刻な腐食が主な原因です。機体構造が弱くなった状態で飛行中の圧力に耐えられなくなり、急激な減圧と構造破壊が発生して空中分解しました。

Q3:向田邦子の最期の様子は分かっていますか?

A3:事故前日の台湾滞在中、妹の向田和子さんに国際電話をかけ、母親とも長く話していたことが証言として残っています。ただし、事故当日の機内での具体的な最後の様子については、確認できる詳細な記録はありません。

【プロの結論】向田邦子の死因と事故の真相から見えてくること

向田邦子さんの死因は、1981年8月22日に発生した遠東航空103便墜落事故です。享年51歳。作家として直木賞を受賞し、脚本家としても数々の代表作を残した人物が、台湾への取材旅行中に突然命を落としました。

事故の真相を理解するうえで押さえておきたいのは、次の3点です。

第一に、事故の直接的な技術原因は機体構造の腐食だったこと。 単なる操縦上のトラブルではなく、胴体下部の腐食と構造強度の低下、急激な減圧が連鎖した事故でした。

第二に、事故当日の出発前にも客室与圧の異常が発生していたこと。 一度台北へ引き返した後、点検・修理を経て高雄行きとして再出発していたという経緯は、整備管理の重要性を考えるうえで欠かせません。

第三に、向田邦子という作家の人生は、事故の悲劇だけでは語り尽くせないこと。 『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』『思い出トランプ』『父の詫び状』など、現在も読まれ、映像作品として親しまれる作品を残しました。

事故についてさらに調べる際は、台湾の検察当局や事故調査結果を引用した航空安全資料を優先し、与圧隔壁の破損と胴体下部の腐食を混同しないことが大切です。また、事故原因の技術的な判断と、刑事裁判における責任の判断も分けて理解する必要があります。

2026年、没後45年を迎えた向田邦子さん。台湾から妹にかけた最後の電話の記憶とともに、彼女が作品に刻んだ人間への鋭い観察眼は、今も色あせていません。

事故の記録を正確に知ること。そして、残された作品を読み続けること。その両方が、向田邦子という作家の人生を受け止めることにつながります。

主な参考資料・出典

- 台湾・新竹地方検察署『Overview of Prosecutorial Entities』(2020年公開)
- 米国国家運輸安全委員会(NTSB)航空事故報告書
- 新潮社「向田邦子 著者プロフィール」
- 実践女子大学図書館「向田邦子」
- 公益財団法人日本文学振興会「直木賞受賞者一覧」
- 文藝春秋・向田和子「向田邦子 台湾からの電話」
- 文春オンライン「没後45年 色あせぬ向田邦子の世界」
- 日刊ゲンダイ「向田邦子 取材先の台湾で飛行機墜落事故」

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コンテンツディレクター 霧島 直人
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芸能担当15年。事務所の公式リリースと本人の公式SNSを一次情報とし、夕刊紙の報道は複数媒体が一致した場合だけ触れます。

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