2人の出会いをたどると、プロレスラーの豊登(とよのぼり)の存在が浮かび上がる。
2022年10月にFRIDAYデジタルが掲載したノンフィクション作家・細田昌志氏の連載によると、2人が初めて顔を合わせたのは1966年ごろ。倍賞美津子が松竹歌劇団(SKD)で活動していた時期だった。
当時、倍賞は舞台を中心に活躍する若手女優。猪木はすでにプロレス界で頭角を現していた。共通の知人だった豊登を介して接点が生まれ、食事の席で改めて紹介されたという。
最初の会話は食事をめぐるやり取り文春オンラインが2022年5月に紹介したプロレス・格闘技ライターの瑞佐富郎氏による著書『アントニオ猪木』の記述には、2人の出会いを象徴するエピソードがある。
倍賞が出演するSKDの公演を見に行った豊登が、食事の席で猪木に彼女を紹介した際、倍賞は猪木の食べっぷりに驚いたという。
互いに遠慮のないやり取りを交わしたことが、2人の距離を縮めるきっかけになった。
その後、猪木は倍賞に積極的にアプローチする。倍賞の母親だけでなく、交際に反対していた父親にも気に入られようと、好物の酒を持って実家を訪ねたというエピソードも残っている。
後年の猪木は、姉の倍賞千恵子のファンだった友人をきっかけに、美津子との関係を深めていった経緯も振り返っている。
1971年3月、羽田空港で婚約を発表交際が公になったのは1971年3月29日。
猪木がアメリカ・ロサンゼルスでUNヘビー級王座を獲得して帰国した際、羽田空港で倍賞とともに婚約を発表した。
当時の報道によれば、会見には150人以上の報道陣が集まった。
倍賞は結婚に際して、所属していた松竹の幹部から、結婚して子どもを産めば従来のような役が来なくなる可能性を指摘されたという。それでも結婚の意思は揺らがず、松竹を退社してフリーの俳優として活動する道を選んだ。
人気女優としてのキャリアよりも、自分が選んだ人生を優先した決断だった。
この経緯は、文春オンラインが紹介した瑞佐富郎氏の著書に詳しい。FRIDAYデジタルの取材記事と合わせても、猪木が積極的に交際を進め、倍賞も自らの意思で結婚を決めたことが分かる。
【1971年の結婚】京王プラザホテルで開催された1億円の豪華挙式

2人が正式に結婚したのは、1971年11月2日。
会場に選ばれたのは、同年に開業したばかりの東京都新宿区の京王プラザホテルだった。
当時のプロレス界と映画界を代表する2人の結婚は、芸能ニュースの枠を超えた社会的な話題となった。
約1000人が出席した前代未聞の披露宴披露宴は京王プラザホテル5階のコンコードボールルームで開催された。
文春オンラインの取材記事によると、出席者は約1000人。総費用は約1億円とされ、2022年の同記事では現在の価値に換算して約4億円規模と紹介されている。
特に注目されたのが、式のために用意された豪華な品々だ。
- 猪木の袴は人間国宝・甲田榮佑による仙台平で、約380万円。
- 倍賞の衣装は打掛や小袖、カクテルドレスなど計5着で約2380万円。
- ウエディングケーキは高さ約5メートル。
- ケーキには卵約2000個、砂糖約500キロが使われた。
- 引き出物にはブラジルの蝶の標本や柿右衛門の皿が選ばれた。
当時としては破格の規模だった。
猪木が豪華な結婚式にこだわった背景には、プロレスという競技の社会的な認知度を高めたいという思いもあった。
猪木自身の自伝では、当時の新聞見出しで倍賞の名前が先に書かれたことに複雑な思いを抱き、世間を驚かせる式を実現しようと考えた経緯が紹介されている。
結婚式そのものを一つの大きな話題にすることで、プロレスラーとしての存在感を世間に示そうとしたのだ。
新婚生活を支えた倍賞美津子華やかな披露宴とは対照的に、結婚後の生活には経済的な苦労もあった。
猪木は1972年に新日本プロレスを設立。日本プロレスから独立して新団体を立ち上げたものの、当初はテレビ中継もなく、興行基盤も弱かった。
新日本プロレスの設立当初から資金繰りは厳しく、会社の運営には大きな負担が伴っていた。
2026年4月の女性自身の報道では、倍賞が猪木に対して「あなた一人ぐらい私が食わせてあげる」と励ましていたというエピソードが紹介されている。
夫を支える一方で、倍賞は家庭を守り、後には育児にも力を注いだ。
2人の新婚生活の舞台となったのが、東京都渋谷区のマンションだった。
当時の夫婦の生活を理解するうえで重要なのは、猪木が単に人気プロレスラーだっただけでなく、団体経営という大きな責任を背負っていたことだ。
【家族と夫婦の歩み】娘・猪木寛子の誕生と倍賞の女優復帰
1974年8月2日、2人の間に娘が誕生した。
名前は猪木寛子(いのき・ひろこ)。
猪木と倍賞にとって、かけがえのない一人娘だった。
プロレス研究で知られるフリーアナウンサーの清野茂樹氏も、2013年のブログで寛子の誕生日が8月2日であることを記している。
東スポの写真記録にも、1979年に寛子が通う幼稚園で餅つきをする猪木と倍賞の姿が残されている。
子育てのために仕事をセーブした倍賞娘の誕生後、倍賞は一時的に仕事をセーブし、育児に時間を割いた。
女性自身が2026年に紹介した関係者の証言によると、幼稚園に通い始めた娘の世話やお弁当作りにも取り組んでいたという。
一方、女優としての活動も再開する。
大きな転機になったのが、1979年公開の今村昌平監督作品『復讐するは我にあり』だった。
倍賞は緒形拳演じる主人公の妻を演じ、強烈な存在感を示した。同作でブルーリボン賞助演女優賞を受賞し、演技派女優としての評価を確かなものにした。
その後も『楢山節考』(1983年)、『恋文』(1985年)、『うなぎ』(1997年)などに出演。映画界で独自の地位を築いていく。
猪木の活躍と夫婦の生活夫婦の人生が重なっていた時期、猪木もプロレスラーとして大きな挑戦を続けていた。
象徴的な出来事が、1976年6月26日に日本武道館で行われたモハメド・アリとの異種格闘技戦だ。
当時のボクシング世界ヘビー級王者だったアリと猪木の対決は、世界的な注目を集めた。
試合は15ラウンドを戦い抜いて引き分け。現在では総合格闘技の歴史を語る際にも取り上げられる重要な一戦となっている。
ただし、この試合は興行面で大きな経済的負担も残した。日刊スポーツの連載によると、新日本プロレスは試合後に約9億円の負債を抱え、経営危機に直面した。
新日本プロレス設立初期の資金難と、アリ戦後の巨額負債は、時期も発生の背景も異なる問題だ。
夫婦生活の裏側には、こうしたプロレス団体の経営と家庭の両立という難しい課題も存在していた。
【離婚の真相】1987年に別れた理由は借金と不倫騒動だけなのか
約16年間続いた結婚生活は、1987年秋に終わりを迎えた。
豪華な結婚式や娘の誕生、夫婦で支え合った時代を知る人々にとって、2人の離婚は大きな衝撃だった。
離婚理由として取り沙汰されてきたのは、主に次の3つだ。
1. 新日本プロレスや事業に関係する経済的な問題
2. 猪木の女性関係をめぐる問題
3. 夫婦それぞれの仕事や生き方の変化
ただし、これらをすべて同じ確度の事実として扱うことはできない。
離婚届が提出されたのは1987年10月初め東スポの元カメラマンによる2022年の回顧記事では、当時の報道を振り返り、2人は1987年9月末に離婚届に署名し、10月初めに猪木の本籍地である横浜市鶴見区役所に提出したとされている。
10月8日には、離婚のニュースがスポーツ紙の大きな話題になった。
一方、2026年4月の女性自身の記事には1988年と記された箇所もある。しかし、東スポの当時の報道記録、FRIDAYデジタルの離婚記事、2026年7月に掲載された猪木の実弟・啓介氏の証言はいずれも1987年を示している。
したがって、離婚時期は1987年秋と整理するのが妥当だ。
離婚理由について2人が守った約束東スポの記録によると、当時の2人は離婚の理由についてマスコミに話さないという約束を交わしていた。
夫婦を知る友人は、離婚を人生の区切りをつけるための発展的な決断として説明している。
また、当時報じられた猪木の借金や、倍賞と萩原健一の関係をめぐる噂についても、友人は事実として認めていなかった。
ここで区別したいのは、倍賞と萩原の不倫説と、猪木自身の女性関係をめぐる証言は別の問題だという点だ。
倍賞と萩原の関係については、映画『恋文』での共演をきっかけに熱愛報道が過熱した。しかし、当時の報道だけで離婚の直接原因だったと断定することはできない。
2026年、猪木の実弟が明かした新たな証言離婚の背景を考えるうえで注目されるのが、2026年7月の文春オンラインの記事だ。
猪木の実弟であり、猪木の近くで長年過ごした猪木啓介氏が、兄の結婚生活について証言している。
啓介氏は倍賞を非常に高く評価し、兄にとって特別な存在だったと振り返った。
その一方で、猪木の女性関係についても率直に語っている。
女性から近づかれると断れないところがあり、実弟が新日本プロレスで営業を担当していた時代には、周囲が女性との接触を防いでいたという。
啓介氏は、兄の浮気も離婚の背景にあったと説明している。
これは2026年に新たに公になった、猪木の身内による重要な証言だ。
ただし、弟の回想は当事者双方が公表した離婚理由そのものではない。2人が離婚について語らないと約束していたことも踏まえれば、複数の要因が重なった出来事として理解する必要がある。
倍賞と萩原健一の不倫騒動は離婚原因だったのか萩原健一との関係が注目された背景には、1985年公開の映画『恋文』がある。
倍賞と萩原は夫婦役で共演し、作品をめぐって2人の関係が週刊誌などで大きく取り上げられた。
FRIDAYデジタルの2022年の記事では、当時の熱愛報道や、猪木自身の女性関係をめぐる報道も紹介されている。
しかし、倍賞は当時、萩原について友人関係であるとの説明をしていたと報じられている。
加えて、東スポが記録した当時の関係者の証言では、倍賞と萩原の不倫説は臆測として否定されていた。
したがって、ネット上で見かける「倍賞の不倫が原因で離婚した」という説明は、確定した事実とはいえない。
2人の離婚と結婚生活を時系列で整理ここまでの主要な出来事を一覧にまとめる。
| 年月 | 出来事 | 2人の関係・背景 |
|---|---|---|
| 1966年ごろ | 出会い | 豊登を介して接点が生まれる |
| 1971年3月 | 婚約発表 | 羽田空港で2人そろって発表 |
| 1971年11月2日 | 結婚・披露宴 | 京王プラザホテルで約1億円の豪華挙式 |
| 1972年 | 新日本プロレス設立 | 倍賞が猪木の事業を支える |
| 1974年8月2日 | 娘・寛子が誕生 | 一人娘が生まれ、家族生活が始まる |
| 1976年6月26日 | 猪木対モハメド・アリ戦 | 猪木の世界的な挑戦と団体経営の負担 |
| 1987年秋 | 離婚 | 約16年間の結婚生活に終止符 |
| 2002年5月2日 | 公の場で再会 | 新日本プロレス30周年記念興行 |
| 2022年10月1日 | 猪木が死去 | 享年79歳 |
| 2026年4月 | 倍賞の転居が報道される | 猪木との思い出が残る渋谷区で暮らす |
この年表からも分かるように、2人の人生は結婚・離婚だけではなく、新日本プロレスの誕生や世界的な格闘技イベントとも深く結び付いていた。
【離婚後と晩年】2002年の再会から猪木の最期まで続いた関係
1987年の離婚後、2人が再び公の場で顔を合わせたのは2002年5月2日だった。
場所は東京ドーム。
新日本プロレス創立30周年記念興行に、倍賞がサプライズゲストとして登場したのである。
2002年5月2日、東京ドームで15年ぶりの再会東スポの元カメラマンによる回顧記事では、この再会は公の場では約15年ぶりだったと紹介されている。
倍賞はリングに上がり、観客の前で挨拶した。
その際、次のように語った。
「何十年ぶりにリングに上がりましたが、いいものですね」
離婚後の元夫婦が同じリングに立つという出来事は、当時のファンにとっても印象的な場面だった。
猪木は突然の登場に戸惑ったような表情を見せたと、当時を知るカメラマンは振り返っている。
このイベントは単なる再会ではなかった。
1972年の新日本プロレス設立時、倍賞は猪木のそばで団体を支えていた。30周年という節目に姿を見せたことには、創立当初を知る人物としての意味もあった。
倍賞が2003年に語った過去への思い2003年1月号の雑誌『SAY』では、倍賞が過去の恋愛について次のような趣旨の言葉を残している。
「人を一生懸命愛した記憶」
別れたからといって、一緒に過ごした時間まで否定する必要はない。
この言葉は、倍賞が猪木との結婚生活をどのように受け止めていたのかを考える手がかりになる。
また、文春オンラインが2023年に紹介した過去のインタビューでは、倍賞は結婚当時、食事を作ることや子育てに喜びを感じていたと語っている。
女優という職業を大切にしながらも、家庭生活そのものにも充実感を見いだしていたことがうかがえる。
猪木の闘病中、倍賞は病床を訪れていた猪木は晩年、難病の心アミロイドーシスと闘っていた。
新日本プロレスの公式発表によると、2022年10月1日、79歳で亡くなった。
2026年4月の女性自身は、倍賞が猪木の闘病中にたびたび病床を訪れていたと報じている。
記事では、猪木の病室には一部の関係者しか入れなかったものの、倍賞は見舞いに訪れていたと関係者が証言している。
その際、猪木は倍賞の姿を見ると優しい笑みを浮かべていたという。
もちろん、病床でどのような会話が交わされたのか、2人が何を話したのかについて詳細な記録は公表されていない。
それでも、離婚から35年を経た時期に元妻が見舞いを続けていたという報道は、2人の関係を考えるうえで見逃せない。
2023年3月7日に両国国技館で開催された猪木のお別れの会には、2人の娘である寛子も参列した。
【2026年現在】倍賞美津子は79歳!渋谷区への引っ越しと最新の活動
2026年11月3日現在、倍賞美津子は79歳。
1946年11月22日生まれで、2026年11月22日に80歳の誕生日を迎える。
猪木の死後も女優としての活動を続けており、2026年には新しい映像作品への出演も確認できる。
2026年4月、猪木との思い出が残る渋谷区へ転居2026年の近況で大きな注目を集めたのが、女性自身の4月9日付の記事だ。
同誌は、倍賞が東京都渋谷区のマンションに転居していたと報道した。
注目すべきなのは、その場所がかつて猪木と新婚生活を送ったマンションの近くにあるという点だ。
結婚当初、猪木は新日本プロレスの設立に伴う経済的な苦労を抱えていた。倍賞とともに暮らした渋谷区のマンションには、プロレス仲間が訪れ、倍賞が手料理を振る舞うこともあったと関係者は振り返っている。
女性自身の記事では、倍賞家の知人が、思い出の街で自分らしく暮らしたいという思いが転居の背景にあるのではないかと語っている。
ただし、これは知人による見立てであり、本人が転居の理由を公式に発表したということではない。
また、同記事では倍賞が独居を選んだことも紹介されている。
離婚後も長い時間を経て、猪木と過ごした場所の近くで暮らすという近況は、2人の結婚生活が倍賞の人生に残した記憶の大きさを感じさせる。
2026年も女優として活動倍賞美津子は2026年にも映像作品に出演している。
注目されるのが、2026年9月14日から20日まで渋谷のSPACE PART3 by PARCOで上映された映画『UNDERGIRL』だ。
ファッションブランドUNDERCOVERの制作集団が手がけた54分の映像作品で、中島セナ、松田龍平、水原希子らとともに倍賞も出演した。
また、同年7月には映画『ぐるりのこと。』の4Kリマスター版も公開されている。こちらは過去の出演作の再上映であり、新作への出演とは区別しておきたい。
2025年には『ガンニバル』シーズン2や『晴れたらいいね』などへの出演も確認されている。
映画やドラマで長年培ってきた演技力を生かし、年齢を重ねた現在も作品の中で存在感を発揮している。
倍賞美津子と猪木の関係の真相とは2人の関係を振り返ると、単純な元夫婦という言葉だけでは説明しきれないものがある。
出会いは若い時代の偶然だった。結婚後は猪木のプロレス事業を支え、娘を育てながら、それぞれが仕事に向き合った。
やがて経済的な問題や女性関係をめぐる問題などが重なり、夫婦生活は終わりを迎えた。
しかし、2002年の再会や猪木の闘病中の見舞い、2026年の転居報道は、離婚後も2人の間に過去を共有する特別な関係が残っていたことを示している。
重要なのは、離婚したからといって、かつての愛情や互いへの敬意がすべて消えるわけではないということだ。
【プロの結論】2人の人生から読み解く、結婚・離婚・その後の絆
倍賞美津子とアントニオ猪木の関係を理解するうえで、押さえておきたい要点は3つある。
第一に、1971年の結婚は互いの人生を大きく変える決断だった。 倍賞は女優としての立場を自ら選び直し、猪木は新日本プロレスという新たな挑戦に踏み出した。華やかな挙式の裏側には、それぞれの仕事と人生に対する覚悟があった。
第二に、離婚理由を一つの噂だけで説明することはできない。 2026年の猪木の実弟による証言は、猪木自身の女性関係が夫婦関係に影響した可能性を示している。一方、倍賞と萩原健一の不倫説や借金だけが離婚原因だったとする説明には、当時の証言と食い違う部分がある。
第三に、離婚後の2人には新しい関係性が生まれていた。 2002年の再会、晩年の見舞い、2026年の渋谷区への転居報道を通じて、かつての夫婦生活が倍賞の人生に残した意味が改めて浮かび上がる。
猪木が残したプロレス界での功績と、倍賞が女優として築いてきたキャリア。それぞれの人生は別々の道を歩んだが、約16年間の結婚生活は、双方の人生にとって大きな転換点だった。
倍賞美津子とアントニオ猪木に関するよくある質問(FAQ)
Q1:倍賞美津子とアントニオ猪木はいつ結婚した?
A1:1971年11月2日。京王プラザホテルで披露宴を開催し、総費用約1億円とされる豪華な挙式が話題になりました。
Q2:2人の出会いと馴れ初めは?
A2:共通の知人だったプロレスラーの豊登を介して知り合ったとされています。倍賞が出演していた松竹歌劇団の公演や食事の席などを通じて親交を深め、猪木が積極的にアプローチしました。
Q3:倍賞美津子と猪木の離婚理由は?
A3:1987年の離婚について、2人は公に詳細を語らない約束をしていました。2026年には猪木の実弟が兄の女性関係を背景として挙げています。事業上の問題も報じられていますが、単一の理由に限定することはできません。
Q4:2人の娘は誰?
A4:1974年8月2日に誕生した猪木寛子さんです。猪木と倍賞の一人娘として知られています。
Q5:倍賞美津子と猪木は2002年に再会した?
A5:はい。2002年5月2日の新日本プロレス創立30周年記念興行で、倍賞がサプライズゲストとして登場しました。東京ドームのリング上で約15年ぶりに公の場で再会しました。
Q6:倍賞美津子は猪木の晩年に見舞いに行っていた?
A6:女性自身の2026年4月の記事によると、猪木の闘病中、倍賞はたびたび病床を訪れていたと関係者が証言しています。
Q7:倍賞美津子は2026年現在、何歳?
A7:1946年11月22日生まれで、2026年11月3日現在は79歳です。同月22日に80歳を迎えます。2026年も映画『UNDERGIRL』などに出演しています。
Q8:倍賞美津子が渋谷区に引っ越した理由は?
A8:2026年4月の女性自身によると、かつて猪木と新婚生活を送ったマンションの近くに転居したと報じられています。思い出の街で暮らしたいという理由が関係者から紹介されていますが、本人による公式な説明ではありません。
倍賞美津子とアントニオ猪木は、1971年11月2日に結婚し、1974年に娘の寛子を授かった。京王プラザホテルでの豪華挙式、新日本プロレスの設立、モハメド・アリとの世紀の一戦など、2人の結婚生活は日本の芸能界とプロレス界の歴史が交差する時代でもあった。
1987年に離婚した後も、2002年の再会や猪木の晩年の見舞いを通じて、かつての夫婦としてのつながりが報じられてきた。
そして2026年、倍賞は80歳を目前に女優として活動を続け、猪木との思い出が残る渋谷区で暮らしていると報じられた。
華やかな結婚、苦難を伴った夫婦生活、そして離婚後も残った記憶。2人の歩みは、別れた後にも人と人との関係がさまざまな形で続いていくことを伝えている。
主な報道・参考資料: 文春オンライン(2022年・2023年・2026年)、FRIDAYデジタル(2022年)、東スポnote(2022年)、女性自身(2026年4月)、新日本プロレス公式発表、猪木元気工場公式年表、映画.com(2026年作品情報)。